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保育所(保育園)の歴史を調べていくと《保育ぷらす》を見つけました。『保育施設はフランス生まれ!オーベルランの「幼児保護所」って? ヨハン・フリードリヒ・オーベルラン(1740-1826) 世界初の保育園が出来たのは、238年も前にその歴史をさかのぼります。1779年にフランスで誕生した「幼児保護所」という施設から、保育園の歴史がはじまりました。創設者はドイツ人牧師のオーベルラン。フランスの町・ヴァルターズバッハの地区開発をするにあたり、町の幼児、少年、成人を対象にした「編物学校」を設立しました。

 

その中の5歳までの子どもに向けたクラスが「幼児保護所」です。当時の農村では子どもも労働力とされ、子どもらしくすこやかに育っていくことが難しい環境でした。 これを改善するため、オーベルランは子どもたちに聖書の話や自然の観察、フランス語やアルファベットの勉強、編み物などについて学び、教養を得る機会を与えて健全な社会を作ろうとしました。 そんなオーベルランの教育理念は、「子供に対しては厳しすぎず、常に優しい好意を持って、しかし侮ることなしに」というもの。

 

現代の教育や保育にも通ずる、素晴らしい考え方だと言えるでしょう』と記されています。オーベルランの経歴はwikiにも記載されています。『ヨハン・フリードリヒ・オベリン(1740-1826)は、アルザス出身のドイツ系フランス人牧師、慈善家、社会活動家。ルター派のギムナジウムの教師ヨハン・ゲオルク・オベリンと、その妻マリア・マクダレーナの子供としてストラスブールに生まれる。故郷の町で神学を学んだ彼は1763年に博士号を取得し、1766年にヴァルダースバッハの牧師となった。

 

当時のヴァルダースバッハは低開発の谷間の土地であったが、オベリンはこの地の果樹栽培や農業生産を改善し、道路と橋梁を作り、友人のヨハン・ルーカス・レグラントの援助を受けて工場会社を多数設立してこの地区の開発を進めた。 また彼の主導で児童学校が建てられ、彼の女中であったルイーゼ・シェップラーがその指導に当たった。オベリンの教育理念は「子供に対しては厳しすぎず、常に優しい好意を持って、しかし侮ることなしにというものであった。彼は農業生産者のために協会を作り、近代的な農法の指導も行なった。

 

彼の社会事業は女性の就業への道を切り拓くものでもあった。オベリンがヴァルダースバッハにやってきたとき、5つの村に生活に困った80から100の家族が住んでいるだけだったが、19世紀の始めには3000人が生活できるようになっていた。オーベルリーンの出合った最も大きな試練は、1816年の飢饉であった。オベリンは死去後、ウアバッハに埋葬された』。1779年にフランスに世界初の保育園の創設したのは、ドイツ系フランス人牧師のオーベルランです。1840年にドイツで世界初の幼稚園の設立したのは、ドイツ人のキリスト教徒のフリードリヒ・フレーベルです。

 

幼稚園と保育所の設立者がどちらもドイツ人・フランス人のキリスト教徒だったことは、松取り(松果体収穫)の生贄の闇を有するドルイドと裏表を使い分けて真実を隠す工作の闇のキリスト教の影響がドイツ・フランスに色濃く残ったからだと感じます。ドルイドの闇にキリスト教の闇がプラスされのが欧州の闇の代表である「ロスチャイルド」です。幼稚園や保育所は、松取りの闇を隠すための工作の場所となるのです。オーベルランの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い。工作員」と伝えられました。《保育ぷらす》には、マクミラン姉妹についても言及されています。

 

『現代の保育園のルーツはイギリスに!マクミラン姉妹の「保育学校」世界初の保育施設はフランスのオーベルランでしたが、より現在の保育園のような形に近づけたのが、イギリスのマクミラン姉妹です。イギリスにおける最初の保育施設は、オーエンが1816年に開設した「性格形成学院」の中の「幼児学校」となりますが、どちらかと言うと学習の側面が強い施設でした。そんな状況の中、マクミラン姉妹は「すべての子どもをあなた自身の子どものように教育しなさい」という言葉のもと、1911年、「保育学校」をロンドンの貧民区に開設します。

 

「保育学校」は共働き家庭の5歳以下の子どもたちを対象にした施設で、お昼寝や手洗いなどの衛生についての指導と、屋外遊びによる身体づくりを軸にした保育内容を行っていました。』。ロンドンの貧民区に開設したのがポイントです。マクミラン姉妹は、米国生まれの英国人で、姉のレイチェル・マクミランと妹のマーガレット・マクミランのことです。マクミラン姉妹の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと共に「レプ」と伝えられました。《保育ぷらす》によると日本の初期の保育所として「亜米利加婦人教授所」が紹介されています。

 

『まるで現代のインターナショナルスクール!横浜の「亜米利加婦人教授所」1871(明治4)、文明開化の頃にやってきたアメリカ人宣教師が横浜に開いたのが「亜米利加婦人教授所」です。当時は外国人と日本人の混血児が社会問題になっていました。そのような子どもたちを救うために、女性宣教師ミセス・プラインたちが立ち上がり、この施設を作りました。明治時代の教育者、中村正直はこの施設を見て、「実母実子かと疑はるるほど」と愛情の深さに驚きました。当時の日本の状況からは考えられないほど、手厚い保育がなされていたということでしょう。

 

また、日本人と外国人の区別をせず、親のいない子も受け入れていたようです。まるで現代のインターナショナルスクールのような保育施設ですね。 こちらの「亜米利加婦人教授所」は、現在の横浜共立学園の前身です。長い歴史が現在も学校として受け継がれています』。横浜の「亜米利加婦人教授所」の後身が「横浜共立学園」です。横浜共立学園中学校・高等学校は、神奈川県横浜市中区山手町に所在する中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校です。高等学校では生徒を募集しない完全中高一貫校です。

 

明治期に創設された女子校で、日本人により設置された女子校より古い学校の一つ。横浜山手の一角に所在し、周囲は横浜市の山手地区景観風致保全地区に指定されている。歴史や立地、実績から神奈川女子御三家の一つに数えられている。「横浜共立学園」の前身「亜米利加婦人教授所」の設立者は、メアリー・プラインジュリア・クロスビールイーズ・ピアソンで、いずれも米国生まれのキリスト教プロテスタントの宣教師です。3人の設立者の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと、いずれも「DS」と伝えられました。

 

横浜共立学園中学校・高等学校の校長・小澤伸男、学校法人横浜共立学園の理事長・坂田雅雄本部所在地(神奈川県横浜市中区山手町)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS。今もやっている」「仁風林」「いいです」と伝えられました。日本の教育において、キリスト教の闇の影響は大きいです。戦前・戦後において、横浜港は、日本の最重要とされる貿易港の1つであり、松・薬の輸送に利用されてきました。《金のエネルギーで港街を封じた》にありますが、横浜の港街は、神戸港、長崎港と同様に金の闇で封じられてきたのです。(つづく)