
千葉県南房総市千倉町のウィキペディアを調べていくと、『(電気)かつて曦(ひかり)町に電燈会社があった。1911年(明治44年)12月事業許可を受け、1912年(明治45年)4月才賀藤吉が曦電気を設立。曦町発電所(瓦斯力)を建設。1913年(大正2年)10月事業開始した。送電区域は千歳村、健田村、曦町、七浦村、白濱村』と記されていました。電力会社など電気関係の裏には、松取り(松果体収穫)の闇が置かれていると分かっています。千倉町にある高家神社や複数の海底ケーブル基地と同じ光の地底を封じる闇の役割です。
千倉町に曦(ひかり)電気を設立した「才賀藤吉(さいがとうきち)」に注目しました。wikiによると、『才賀藤吉(1870年-1915年)は、明治末期から大正初期にかけて活躍した実業家、代議士。各地の電気会社や鉄道会社の経営に参画し、電気王と称された。1870年大阪に生まれる。大阪の実業家の丁稚となり、その実業家の援助により共立学校(現・開成高等学校)に入学する。卒業後大阪電灯株式会社に入社。1893年には退社して東京の三吉電機工場に入社する。三吉電機工場は京都電気鉄道(後の京都市電)の建設工事を請負い、そこで才賀は現場監督となる。
1896年三吉電機工場を退社して今までの経験を元に京都で才賀電機商会を設立する。才賀電機商会は当初紡績工場での照明電気工事の請負などしていたが、やがて地方の電気会社(電力会社)や鉄道の設立に関与するようになった。地方では電気会社(電力会社)や鉄道の設立の機運が高まっていたがノウハウに乏しく、技術者や関係官庁との折衝ができる人物を必要としていた。そういった地方に才賀が乗り込み提案した。才賀電機商会が工事を請け負い、資材の購入をし、技術者を送り込んで技術指導をする。
資金が不足していれば資金の提供をする。そうすることによって電気会社(電力会社)や鉄道が地方でも実現できた。才賀は全国を飛び回り地方の資本家たちに提案していき短期間のうちに次々と会社を設立しその会社の責任者となった。才賀が関係した企業は100社とも150社ともいわれている』と記されています。才賀藤吉が関わった紡績会社、電力会社、鉄道会社の全てが、裏の松利権の闇に繋がるものです。才賀藤吉は、松利権の隠れ蓑となる表のビジネスを広げた先駆者だと感じます。
才賀藤吉の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「殺されたと思う。日本DSでDSにやられた」と伝えられました。明治時代は、純粋な闇からエゴの闇に変わり、深い闇の時代に入っていきました。日本の支配層の松利権集団が、純粋な闇を持つ八咫烏・日本DSからエゴの闇となる汚いDSに移り変わっていったのです。才賀藤吉が入社した東京の「三吉電機工場」が気になりました。三吉電機工場は、日本初の電気機器製造会社であり、経営者は「三吉正一(みよしよういち)」でした。
三吉正一のウィキペディアの写真を見ると知人に似ており、過去世の可能性が高いと思いました。wikiには、『三吉正一(1853年-1906年)は、明治中期の日本の技術者。日本初の電気機器製造会社である三吉電機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。三吉正一は周防国岩国に生まれた。家は岩国領主吉川氏に仕え、祖父は佐久間象山や勝海舟とも親交があったという。1871年(明治4年)に大阪の開城学校に入学、翌年には上京して同郷先輩宅に寄宿していたが1875年(明治8年)上州富岡製糸場の伝習生となりその技術を学ぶことになった。
やがて工部省が学校を創立し、学生を募集することを知り上京して勝海舟と面会して入学の希望を伝えた。そして東京電信修技校に入学することとなり通信術を学んだ。1877年(明治10年)工部省電信寮製機科に入り技手となる。芝区南佐久間町(現在の港区西新橋)の自宅に工場を設え電信、電話機、電鈴等の製造販売をはじめる。これが日本初の電機製造会社三吉工場(のち三吉電機工場)の誕生であった。転機は同郷の岩国出身である工部大学校の藤岡市助の協力を得られたことであった。
1886年(明治19年)藤岡は東京電燈の技師長となり営業が開始されると、三吉は東京電燈の機器の製造修理を請負うことになった。業務拡大により1887年(明治20年)芝区三田四国町(現在の港区芝五丁目)に工場を移転し三吉電機工場に改称する』とありました。三吉正一の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏。DSにやられた」と伝えられました。才賀藤吉は、三吉電機工場出身の技術者で、三吉正一の弟子です。八咫烏・日本DSの役割の才賀藤吉、三吉正一がエゴの闇のDSに潰されたのです。
三吉正一が機器の製造修理を請負っていた「東京電燈」を追いました。wikiには、『東京電燈株式会社は、かつて存在した企業の一つ。日本初の電力会社である。1882年3月18日、渋沢栄一・大倉喜八郎らは、東京電燈会社設立を出願。7月、横山孫一郎・大倉喜八郎ら計画中の電燈会社と合同し、大倉組内に東京電燈会社設立事務所を設置。12月14日、創立をふたたび出願。1883年(明治16年)2月15日、矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信(第十五国立銀行支配人・日本鉄道会社理事)、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が国から会社の設立許可を受ける。
富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められたものだった。1886年(明治19年)7月5日に企業活動を開始し(資本金20万円)、1887年(明治20年)11月には東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始する』と記されています。日本初の電力会社の東京電燈株式会社は、渋沢栄一・大倉喜八郎といった松利権網の中心となる著名な実業家が実質的に設立したものでした。それは、電力会社の裏にある支配層の松利権の拡大を目的にしていたと見ることができます。
東京電燈は、9配電会社設立に伴い、1942年(昭和17年)4月1日をもって東京電力の前身である関東配電へ吸収されました。東京電燈は、現在の東京電力の源流の1つになる電力会社でもあります。東京電燈の会長兼社長だった新井章治(1881年-1952年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「日本DS」と伝えられました。東京電燈の本社所在地(東京府東京市芝区田村町1丁目1-2(現在の港区西新橋二丁目))に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。(つづく)