2022年10月16(日)、右側の乳頭の周辺に小さな湿疹ができて、痛痒い感じになっていました。明らかにワークの場所を教えてくれるサインだと思いました。右の乳頭の場所は、日本列島では静岡県の辺りでした。ちょうど缶詰関連を調べていたので、静岡県の缶詰会社だと感じてネット情報を収集することにしました。《静岡県の缶詰食品製造・企業一覧》には、静岡県の缶詰食品会社17社が掲載されており、17社中、10社が静岡県清水区(旧清水市)で、3社が焼津市に所在していました。
静岡県の旧清水市に缶詰会社が多い理由を調べると《株式会社ドリームプラザのプレスリリース》には、『静岡県はまぐろ類缶詰生産量全国1位、シェアはなんと97%にも達します。(令和元年「缶詰時報」公益社団法人日本缶詰びん詰レトルト食品協会調べ) さらに、静岡市清水区には缶詰メーカーが10社以上存在し、まさに「かんづめ王国」といっても過言ではありません。・・〈歴史的背景〉昭和4年清水食品株式会社(清水市※現在の清水区)が日本で初めてまぐろ油漬缶詰を製造し、アメリカに輸出しました。
その後清水市を支える産業のひとつに缶詰産業が成長し、清水港から輸出される製品の中心を占めただけではなく、日本の輸出貿易拡大に大きな役割を果たしました』と記されていました。《缶詰記念館(静岡県静岡市清水区) ツナ缶の歴史》には、『清水といえばマグロ、マグロといえばツナ缶。マグロの油漬缶詰を日本で初めて作り輸出したのは清水食品です。明治10年頃から静岡県の各地で缶詰の製造が盛んになります、大正10年に県水産試験場でマグロの油漬缶詰を試験的に製造。
昭和5年に清水食品がマグロの油漬缶詰をアメリカに輸出しました。その後昭和6年に後藤缶詰所(現・はごろもフーズ)が創業を開始します』と書かれていました。また、《TBS RADIO アシタノカレッジ》には、『実は静岡市はマグロのツナ缶の生産量が全国1位、なんと97%のツナ缶が静岡市で生産されているんです。静岡県は「お茶」の産地として早くも江戸時代から明治時代にはアメリカへの輸出が開始されていました。その後、珈琲や紅茶に押され輸出量が減少傾向にありました。
それを補う産業として開発されたのが「缶詰」でした。1929(昭和4)年にマグロのツナ缶が開発され、翌年に輸出が開始。温かい時期にはツナ缶、寒い時期にはミカンの缶詰を生産することで、缶詰産業が発展したのです』とあります。これまで、日本の缶詰工場については、幾度か調査とワークを行ってきました。《北海道のタルタリアを隠した石狩など5つの缶詰工場》にありますが、フランスで皇帝ナポレオンが懸賞金を出して1804年に缶詰の前身の瓶詰が生まれました。
そして、1810年に英国で缶詰の発明に至ったのです。日本初の缶詰工場は、1877年(明治10年)10月に北海道石狩市に設立されました。石狩缶詰所を皮切りに美々、厚岸、別海、択捉島と、北海道の5箇所に缶詰工場を建設され稼働しました。フランスのナポレオンの懸賞金によって生まれた缶詰は、発明当所から裏の目的が保存が効く人肉塩漬けを意味する松の缶詰だったと推察しています。支配層の裏の金儲けのために、保存流通可能な松製品をつくるために缶詰が発明されたのです。
「明治10年頃から静岡県の各地で缶詰の製造が盛んになる」という引用サイトの記述は、1877年(明治10年)10月に石狩缶詰所の設立と連動していることが窺えます。缶詰工場の設置は、自然豊かな光のエネルギーの地底を示唆する「タルタリア」を闇で封印する意味もあります。《国後島中心に50箇所の缶詰工場が存在した北方領土》には、北方領土には国後島を中心に50箇所の缶詰工場があった事実を記述しています。北方領土もタルタリアという自然の光がある大事な場所です。
裏の松の缶詰工場を置くことで光の地を封印していたのです。では、「缶詰王国」とされる清水区(旧清水市)を含む静岡市の地は、どういう意味のある場所なのか、という問題です。静岡市の場所は、糸静線(糸魚川・静岡構造線)の静岡側の端にあたります。構造線が通る場所は、本来、光のエネルギーが放出される場所です。光のエネルギーが放出されないようして暗闇にするために構造線上に数々の神社仏閣が置かれてきました。神社仏閣は、古くから裏で松取りが行われた来た場所です。
それは、光の場所に大きな闇のエネルギーが置かれてきたことを示唆します。近代になり、松取り工作も巧妙になってきます。隠された闇である松利権の闇としての缶詰工場が旧清水市に置かれたのです。《糸静線の静岡側ポイントの解除》では、糸静線の静岡側の神社仏閣のポイントの解除のワークの様子を書いています。もう1つ、静岡市という場所における重要なポイントがあります。それは、徳川家康の居城であった駿府城と今日の良港としての重要港湾である清水港がある徳川家の拠点だったことです。
清水港は、戦国時代の16世紀には駿河に侵攻した武田氏の水軍基地となり、その後、徳川家康も水軍の拠点としました。武田家滅亡後、徳川家康は武田家の家臣の旗本たちを配下にして八王子千人同人が生まれました。八王子千人同人は、裏の松取り工作員部隊であり、現代の反社に繋がります。松の缶詰工場が置かれた静岡の地には、大政奉還、明治維新の際に裏に回った徳川家の存在があります。明治以降の徳川家は、八咫烏という支配層の松利権集団の裏の役割を担っていたと見ています。(つづく)