2013.1.01吉崎_-_panoramio


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月中旬、父親のスマホから私のスマホに中国語のような奇妙なメッセージ「余!縷々、費をんんんを雍や劉于雍。さと残念でした」が届きました。中国語の漢字が混ざっている文章で前半の意味は分かりませんが、最後の「さと残念でした」は分かります。宇宙人からのメッセージということは理解していました。去年の3月から4回不思議なメッセージが届いていました。父親のスマホから届いた「わに私達」「わわ」「、」「す」の暗号のようなメッセージです。「わに私達」「わわ」は、プレアデスのワニの宇宙人からでした。

 

ワニの宇宙人は、松工作員の仕事をするために、男と女の両方に変身することが出来る両性です。「わわ」というのは2人で1人を意味します。光に還りたいから気づいて光を降ろして欲しいというメッセージでした。父親は90歳で介護が必要な老人なので、当然のことながら自分でスマホからメッセージを打って送ることはできません。しかし、現実的に私のスマホに目に見える形のメッセージが届いていました。誰もが信じられないような非現実的な出来事ですが、実際に起きているのです。

 

「、」のメッセージは、東京タワーや水道橋周辺の水の場所にワニの居残隊がいて光を降ろして欲しいとセッションで伝えられたので、地図を見て数箇所に光を降ろした後に届いたものです。「、」とは「天」であり、「天に上がった(光に還った)」というユーモラスな謎解きようなメッセージです。「す」は「素の神」「スサノオ」という誰もが持っている魂の「純粋な光」だと理解していました。今回のメッセージ「余!縷々、費をんんんを雍や劉于雍。さと残念でした」には、心当たりがありました。

 

2回のヒプノセラピーセッションを終えたクライアントの方から、寝ている時に浮かんだという「やぶきじょうじろう」「梅」の言葉と、その後ネットで調べて出て来た「朗生寺(ろうじょうじ)」のワードがメールで送られてきました。最初は、クライアントの方自身が探求して光を降ろすためのヒントだと思ってやり過ごしていました。父親のスマホからの中国語の謎のメッセージは、その後に届きました。私が調査とワークをしないことに対しての「さと残念でした」という意味だと感じました。

 

メールを届けたクライアントの方は、セッションから子供の松取りがメインとなる八咫烏の仕事をしていた宇宙人の過去世を多く持つ方だと分かっていました。人間としての過去世よりも闇の仕事をする人間をサポートする宇宙人の過去世が多いのです。ヒプノセラピーの記事《今は闇を壊すことをやっている》にセッション内容がありますが、クライアントの方と一緒に仕事をしていた宇宙人は、「昔は子供をさらって松取りの仕事をしていたけれど、今は闇を壊すことをしている」と伝えてきました。

 

クライアントの方の宇宙人は、アドレノクロムに繋がる松の仕事をして日本の深い闇の環境をつくっていましたが、今は、その闇を壊して元の姿に戻す仕事をしているのです。メールで伝えられた「やぶきじょうじろう」「梅」「朗生寺(ろうじょうじ)」のワードのヒントから、ワークを行う必要がある対象を探っていくことにしました。まずは朗生寺をワークの対象としました。朗生寺は千葉県匝瑳市(そうさし)野手に所在する日蓮宗の寺院です。朗生寺の住職・長谷川雄一所在地に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。

 

「中国」「いいです」と伝えられました。《匝瑳市公式ホームページ》に朗生寺の伝説が記載されていました。『野手の古町に朗生寺がある。この寺は、日蓮上人の第一の高弟である日朗(にちろう)の生まれたところだといわれている。この朗生寺に次のような話が伝えられている。この寺は、池上本門寺の日惺上人(にっせいしょうにん)が江戸時代の初めに再建したものだが、村人はほとんど真言宗の信者だったため、ついにいったん廃寺になり、かえりみられることもなかった。

 

明治十五年、岡山県後月郡高屋町にいた日蓮信者の矢吹伊三郎という人が、たちの悪い病気にかかった。そこで身延山をはじめ佐渡へ渡って日蓮宗の寺を参詣しながら、房州へ向う途中、野手の朗生寺に立ち寄った。ここで、病気が治るようお参りをした。 ところが、お参りを終えて歩き出そうとしたが、笈「おい」(行脚僧などが仏具・衣類などを入れて背負う箱)が重くなって動こうにも動けなくなってしまった。 やむなく、伊三郎は、ここにとどまって朗尊の霊に仕えることを決心した。

 

伊三郎は、それ以来夜も昼もなく、身も心も尽くして、病気で苦しんでいる人々のために、仏に念じ続けた。この祈りが通じたのか、何人もの村人の病気が治ったり、悩み、苦しみがなくなったということだ。 救われた村人たちは、朗尊のご利益と伊三郎への感謝の気持をこめて、大正二年今の本堂を建てたという』。日蓮信者の矢吹伊三郎は「朗尊(日蓮の第一の弟子の日朗)の霊に仕えることを決心した」とあるので「日朗」がポイントだと感じました。wikiに日朗の情報がありました。

 

『日朗(1245-1320)は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。1261(文応2)日蓮を師として法を学んだ。1271(文永8)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。1274(文永11)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る。1282(弘安5)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた。1309(延慶2)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立する。

 

1320(元応2)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた』と記されています。「創価学会」に象徴される「日蓮宗」は重要な闇の役割を担ってきました。《山梨 身延山久遠寺 ~巡礼の旅(93)~》には、20145月に身延山久遠寺にてワークを行い日蓮宗の宗祖・日蓮の御魂が光に還った様子を綴っています。《日蓮の直弟子から示唆される裏インドの闇の役割》では、「日朗」を含めた日蓮の7人の弟子のエネルギーワークを行っていました。日朗のwikiには「池上本門寺の基礎を築いた」とあり、光を降ろすべき対象の本丸は「池上本門寺」だと感じました。(つづく)