10月28日(金)、肛門の左側に軽い痛みがありました。自分の体を日本列島とすると場所的には、鹿児島県の薩摩半島と大隅半島の間の辺りでした。タイミング的には、松利権に関係する繊維業について調査やワークを行っていたので、繊維業関係だと感じました。「鹿児島×繊維業」のワードを検索エンジンで調べると「鹿児島紡績所」がヒットしました。また、その前日から頭頂部にも吹き出物が出来ていました。頭頂部の場所は北海道であり、北海道の繊維業だと感じてネットで調べると「帝国繊維」に行き着きました。
まず、鹿児島県につくられた紡績所の「鹿児島紡績所」について調査とワークを進めることにしました。wikiに「鹿児島紡績所」の情報が記載されています。『鹿児島紡績所は、かつて薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村磯(現在の鹿児島県鹿児島市吉野町)にあった紡績工場。1867年(慶応3年)に薩摩藩によってに創設された日本初の紡績工場である。同じく薩摩藩により堺に創設した堺紡績所(大阪府堺市堺区)、江戸幕府により創設された鹿島紡績所(東京都北区)とともに始祖三紡績といわれる。
紡績所跡地は「鹿児島紡績所跡」として国の史跡に指定され、現存建造物である旧鹿児島紡績所技師館は国の重要文化財に指定されている。安政5年(1858年)に島津斉彬が急逝し、集成館事業は一時衰退するが、5年後に起きた薩英戦争によりその重要性が再認識され、五代友厚や石河確太郎らの建言に基づいて、藩は西洋の学問を奨励するとともに英国へ留学生を派遣、西洋の新しい技術や機械を積極的に導入することになった。慶応元年(1865年)英国への留学生を引率した五代や新納久脩は、プラット・ブラザーズ社から紡績機械を購入した。
同時に工場建設や技師の派遣も依頼した。紡績機械は開綿機・梳綿機、錘精紡機・力織機など150台余りがあった。他に蒸気機関も導入、翌年3月には司長イー・ホームをはじめシリングフォードなど4人の技師が鹿児島に入り、工場建設が始まった。慶応3年(1867年)には、工場長ジョン・テットローが機械とともに到着、随行した2名の技師も加わって計7人となり、同年5月に日本初の洋式機械紡績所が竣工、勝手方用人の松岡正人が紡績所総裁に就任した。原料の綿花はおもに関西方面から買い入れた。
職工200人余りが1日10時間の就業で、180㎏を紡いだという。明治2年には白木綿6万5千反、かすり2千600斤ほどを生産しており、おもに関西方面で売却された』。これまでの調査とワークから「繊維業」の裏には「松利権」があることが分かっていました。《大日本帝国軍の技術者を招聘した興和と超宗派寺院の覚王山日泰寺に潜むタイ王国が絡む松利権の闇》にありますが、麻や綿などの繊維の藍染には、藍玉をカモフラージュにした松取り(松果体収穫)が行われてきました。藍玉は藍の植物を発酵させてつくられます。
藍玉の藍色と独特の臭いによって遺体を解体する時の臭気と血液を隠すことができるのです。古くから繊維業の裏で、遺体からの人肉・内臓の発酵塩漬けの松製品がつくられていたのです。人肉・内臓の発酵塩漬けの松製品は、あくまでも限られた支配層の権力者のためのものでした。日本初の紡績工場「鹿児島紡績所」の設立によって、限られた権力者のための松製品が、大量生産する方向に動いていきました。日本初の紡績工場「鹿児島紡績所」は、1867年(慶応3年)に創設されましたが、その10年後には、北海道石狩市に日本初の缶詰工場が設立されました。
《全国のマグロのツナ缶生産量全国1位・97%シェアを誇る静岡と清水港を有する徳川家の拠点の意味》に記していますが、静岡県旧清水市がみかんやツナ缶の裏で松製品の缶詰を製造していたと見ています。人肉・内臓の発酵塩漬けから缶詰の荷姿の松製品に変わることで、八咫烏を主とする支配層は大量生産・大量販売という大きな金儲けに繋がります。「鹿児島紡績所」の関係者では、「五代友厚(ごだいともあつ)」に着目しました。2015年度下半期に放送されたNHK朝ドラ「あさが来た」では、ディーン・フジオカが扮する五代友厚が登場しています。
薩摩藩士の五代友厚は、大阪の実業界・経済界にとっても重要な役割であり、実質的な松利権のキーマンだったと見ています。五代友厚の経歴や情報はwikiに掲載されています。『五代友厚(1836年-1885年)は、幕末から明治期の日本の武士、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現在の鹿児島県鹿児島市長田町)生まれ。通称は才助。大阪経済界の重鎮の一人。大阪市の本邸跡は大阪科学技術館・日本銀行大阪支店になっている。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再興を図った』。
「鹿児島紡績所」が設立された場所は、現在は、鹿児島紡績所跡となっています。鹿児島紡績所跡は「仙巌園(せんがんえん)」と同じ敷地にあります。《夢で教えられた松利権の支配につながる薩摩藩と島津氏》にありますが、国指定の名勝の仙巌園は、第19代当主・島津光久によって造園された庭園です。同じ敷地にある尚古集成館は、第28代当主の島津斉彬(なりあきら)による集成館事業の一環として建造された製鉄、造船、紡績等の機械工場でした。私の過去世でも縁が深い松取りの証拠隠滅工作の「反射炉」があった「旧集成館反射炉跡」もあります。
庭園や反射炉からも、仙巌園、尚古集成館、鹿児島紡績所跡の一帯は、薩摩藩島津家の松取り場であり、遺体からの人肉・内臓の発酵塩漬けである松製品の製造場所だったと見ています。五代友厚の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「頭のいい工作員」と伝えられました。鹿児島紡績所跡の所在地(鹿児島県鹿児島市吉野町9688-25)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。裏の松取り・松製品の製造場所であった堺紡績所(大阪府堺市堺区)、東京の鹿島紡績所(東京都北区)についても追うことにしました。(つづく)