320px-Daisen-park-1-r


1867
(慶応3)に薩摩藩によってに創設された日本初の紡績工場である「鹿児島紡績所」、同じく薩摩藩により堺に創設した堺紡績所(大阪府堺市堺区)、江戸幕府により創設された鹿島紡績所(東京都北区)3つの紡績工場の「始祖三紡績」は、松利権網を考慮し戦略的に配置されたと感じます。堺紡績所の情報はWikipediaに掲載されています。『堺紡績所とは、1870(明治3)に摂津国住吉郡堺町戎島(現在の大阪府堺市堺区戎島町)に建設された日本で2番目の機械紡績工場。大規模な工場としては、近代最初となる。所在地から戎島紡績所(えびすじまぼうせきじょ)とも呼ばれる。

 

1866(慶応2)、薩摩藩が自藩における鹿児島紡績所の成果を生かして殖産興業を推進するために本格的な紡績工場建設を計画、大坂に近い堺の戎島に新しい蔵屋敷を建設する事を名目に用地を獲得した。1868(明治元年)に薩摩藩士石河確太郎(正龍)を責任者として建設が開始された。同年暮れにはイギリスのミュール紡績機(ビギンズ商会製)2,000錘が鹿児島経由で堺に運び込まれた。1870(明治3)4月に蒸気機関の試運転が開始され、同年12月に本格稼動した。営業担当には五代友厚があたったが、業績は不振で廃藩置県を機に1872(明治5)5月に大蔵省勧農寮に買収された(後に内務省に移管)

 

石河は明治政府に登用されてそのまま責任者の任についた。1877(明治10)には明治天皇が関西行幸の折に視察に訪れている。1878(明治11)に浜崎太平次・肥後孫左衛門に払い下げられる。翌年には業績不振により紡績機を放出、一部は宮城紡績会社(後の三居沢発電所)が利用した。浜崎没落後の1881(明治14)に川崎正蔵(後の川崎重工業の創始者)の代理人である川崎正左衛門の所有となり、「川崎紡績所」と改称した。1889(明治22)に川崎愛之輔(正左衛門の妹婿)を中心として設立された泉州紡績会社の中核工場となる。

 

泉州紡績は工場所在地にちなんだ「戎印」を商標として採用してブランド化に成功、中国・香港市場に進出した。1903(明治36)に泉州紡績が岸和田紡績に買収・合併されると同社の工場として引き続き「戎印」ブランド商品を生産するが、後に施設の老朽化を理由に倉庫に転用され、1933(昭和8)に取り壊された。その後1939(昭和14)に木南車輌製造の工場が移転してきている』。堺紡績所が置かれた大阪府堺市は、大事な光の場所である故に古くから光を封印する闇の施設が置かれてきました。

 

その1つが「仁徳天皇陵」です。仁徳天皇陵は、大規模古墳であり、天皇などの権力者の墓所とされます。しかし、エジプトのピラミッドと同様に、内部で松取り(松果体収穫)を行っていた隠れ蓑の場所です。《分離エネルギーを放つアンドロメダの宇宙存在の解除とピラミッド・巨大古墳の解放(2) ~闇が光に還るとき~》にありますが、仁徳天皇陵が隠された松取りの闇の場所である故に、分離のエネルギーを放つ場所になっていたと分かっています。もう1つは、大阪府堺市にはザビエル公園(戎公園)や堺鉄砲之碑があり、鉄砲に縁ある地なのです。

 

実は、鉄砲などの武器の裏にも松取りや松利権があります。《同志社大学に多額な設立資金を寄付した後南朝の奈良吉野の林業家・土倉庄三郎》に書きましたが、鉄砲などの武器に使用される火薬の成分である「硝酸カリウム」(塩硝)は、肉の防腐剤に利用されます。遺体からの人肉・内臓の発酵塩漬けには防腐剤の硝酸カリウムが使われてきました。現実的には、表の世界においても、ハムやソーセージにも添加物として使用されています。鉄砲や武器や火薬庫のある場所では、裏で松取りが行われて、松製品がつくられていたのです。

 

火薬を使う鉄砲など武器がカモフラージュになります。このことからも戦争が松取り工作と言えるのです。《- 堺紡績所 -》によると、堺紡績所があった場所は、現在、明治天皇の行幸記念碑(大阪府堺市堺区戎島町)であり、堺紡績所跡の案内板が置かれていることが記されています。明治天皇の行幸記念碑とは、明治天皇が旅行をした旅先ということです。どうして明治天皇が行幸したかは、そこが松取り場であり、松を食すためです。グーグルマップで調べると、明治天皇の行幸記念碑の南西約300mの所にザビエル公園(戎公園)や堺鉄砲之碑があります。

 

堺紡績所跡(明治天皇の行幸記念碑)の所在地(大阪府堺市堺区戎島町1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。堺紡績所に納入された2,000錘の英国のミュール紡績機(ビギンズ商会製)を発明したのは、「サミュエル・クロンプトン」です。サミュエル・クロンプトン(1753-1827)は、イギリスの発明家、紡績工です。サミュエル・クロンプトンの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「闇の叡智を降ろした人」と伝えられました。堺紡績所から所有者が変わった「川崎紡績所」に着目しました。

 

「川崎紡績所」の実質的な所有者は、後の川崎重工業の創始者である「川崎正蔵」です。wikiには、『川崎正蔵(1836-1912)は、薩摩国鹿児島城下下町大黒町(現在の鹿児島県鹿児島市大黒町)出身の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所(現・川崎重工業)創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員』と記されています。川崎重工業株式会社は、東京都港区と兵庫県神戸市中央区に本社を置く重工業メーカーです。オートバイ・航空機・鉄道車両・船舶・軍事ヘリコプターなどの輸送機器、その他機械装置を製造しています。

 

三菱重工業(MHI)IHI(旧石川島播磨重工業)と共に三大重工企業の一角を成します。会社の歴史は、19世紀の明治時代より始まっており、東京築地の川崎築地造船所に端を発しています。川崎重工業の初代社長は、松方正義の三男の「松方幸次郎」です。wikiには、『松方幸次郎(1866-1950)は、薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島市下荒田)の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義』と記されています。

 

川崎重工業の創始者・川崎正蔵と初代社長・松方幸次郎の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「日本DS」「八咫烏。松の運び屋」と伝えられました。川崎重工業の代表取締役社長執行役員兼CEO橋本康彦(1957-)神戸本社所在地(兵庫県神戸市中央区東川崎町1丁目)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「DS」「いいです」と伝えられました。川崎重工業は、薩摩藩がつくった堺紡績所の松利権を引継ぎ、現在も八咫烏・日本DSの闇の役割として日本の軍需産業の一角を担っていると感じます。(つづく)