日本ハムファイターズの新球場「エスコンフィールド北海道」の設計者・建設者「大林組」の創業者・大林芳五郎の調査とワークについて《日ハム新球場の土地使用料21億6000万円を免除した半島工作員の北広島市長・上野正三》に書いていました。大林芳五郎の長男・大林義雄の妻の父親が元帥陸軍大将の上原勇作です。大林芳五郎と上原勇作についてのワークでは「アーク」「特級工作員」と伝えられていました。個人的には「上原勇作」は、当時の八咫烏の軍トップに就いていた人物だと感じていました。
《薩摩ワンワールドというディープステートに繋がる秘密結社》の記事でも上原勇作の存在を知っていました。落合莞爾が管轄する《紀州文化振興会》の「本会の日本近現代史研究について」を引用していました。『本会が日本近現代史の研究を始めた契機は、紀州徳川家に伝来した中国古陶磁を引き継いだことにある。その日本伝来にまつわる事情を追求した処、終に到達したのが奉天特務機関長貴志彌次郎少将と陸軍特務吉薗周蔵であった』。紀州徳川家は、松取り(松果体収穫)で徳川御三家の蓄財をしていたことが分かっています。
ヒプノセラピー記事の《紀州徳川家の死体を運ぶ裏の仕事をしていた武士の過去世》では、『ギックリ腰は闇の過去世を知るため。海を闇にする。闇の場にする。血を運ぶ。人を運ぶ。死体を運んだ。罪人や病気だった人。江戸時代の和歌山沖。和歌山城に仕えていた武士。和歌山から海を伝って徳川の中枢に届けた。江戸と静岡。身分が保証されていた。秘密の仕事。それは表は海産物を運ぶ仕事。徳川御三家の資産形成』と伝えられていました。紀州徳川家は、徳川家の松取りの現場部隊でした。
《紀州文化振興会》の内容にある「陸軍特務吉薗周蔵」が非常に気になりました。特務とは諜報部員(スパイ)のことです。吉薗周蔵(よしぞのしゅうぞう)のウィキペディアには詳細情報が記載されています。『吉薗周蔵(1894年-1964年)は、元帥陸軍大臣上原勇作個人付き陸軍特務を務めた人物。「吉薗周蔵手記」という、陸軍特務時期の活動内容を記した手記を残している。[陸軍特務となってから]周蔵の特務としての主な任務は罌粟(ケシ)栽培とアヘン(特にモルフィン純度の高い特殊アヘン)製造である。大正2年(1913年)1月より熊本医学専門学校麻薬研究部の無給助手として通い始め、アヘン研究と罌粟栽培の準備を開始。
同年3月に罌粟栽培を開始し、同年5月に初収穫。初年度は僅かな収穫であったが、以降規模を拡大していく。その後、ABO式血液型分類法の諜報活動のため、大正5年(1916年)6月に日本を発ち渡欧。大正6年(1617年)3月にカール・ラントシュタイナーよりABO式血液分型分類法を入手して、同年6月に帰国。 帰国後の大正6年(1617年)9月、アヘン研究・製造を隠す表看板として、癲狂院の派出所(精神カウンセラー)「救命院」を東京府豊多摩郡中野町小淀と野方村上高田に開設。小淀の救命院では佐伯祐三の診察日誌を記録する事となり、佐伯の生涯に渡って親交を深める事となった。
同年10月には購入した北沢の煙草小売店から久原鉱業に煙草を卸すという形の商流で、陸軍とのアヘン取引を開始。大正7年(1918年)4月には「阿久津製薬」を設立し、品質の良い阿片の研究・流通の事業化を図った』と記されています。吉薗周蔵は、上原勇作のお抱え工作員としてケシ栽培とアヘン製造に深く関わっていました。《隠された暗黒の日本の歴史》には、『アヘン帝国という日本の麻薬の歴史が隠されて来た。日本は世界一のアヘンの生産国だった。戦争の資金を得るために、植民地でアヘンやモルヒネを蔓延させて、麻薬中毒者を増やして行った』とあります。
日本は、戦前戦中に中国大陸・朝鮮半島・台湾などの植民地でケシ栽培からのアヘンの製造販売によって金儲けをしていましたが、その事実は全て隠蔽されてきました。当時、台湾総督府民政長官の後藤新平、星製薬の創業者・星一、日本の阿片王と呼ばれた二反長音蔵がケシやアヘンに深く関わっていました。私は、後藤新平と魂を共有し、過去世でもあるので、吉薗周蔵と深い関係があったと感じています。吉薗周蔵の写真はネットでは見当たりませんでしたが、似顔絵の画像がありました。髭を生やした中東や西アジアの人の顔立ちです。
wikiには、「彫りの深い顔立ちの周蔵は、たいていドイツ人かトルコ人と思われ、日本人に見られたことは1度もなかった」と記されています。吉薗周蔵の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏が使った最初の外国人工作員」と伝えられました。やはり八咫烏の外国人の工作員でした。吉薗周蔵は精神病院の仕事もしており、アヘンなどの薬物を使った人体実験をしていたと推測しています。吉薗周蔵のwikiで、特別に注目した「軍人・政治家・満鉄関係者」の「高島鞆之助」の箇所の内容があります。
『大正2年(1913年)、第3師団長に補された上原勇作は名古屋赴任の途中で発病し大阪赤十字病院へ緊急入院した。祖母・ギンヅルより罌粟丸薬と多量の浅山丸を急ぎ届けるよう指示された周蔵を待っていたのが元陸軍大臣の高島だった。この時、罌粟丸薬よりも浅山丸の方を多く持ってきたことを伝えると、高島は「さすがオギンさん」と感心していた』。浅山丸の引用元は、山田浅右衛門のwikiでした。そこには、『さらに副収入として、山田浅右衛門家は人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。
これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという』と記されていました。浅山丸は、人間の内臓などの死体の一部を用いた「松の丸薬」だと感じます。山田浅右衛門家については、『最大の収入源は「死体」であった。処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許された。これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられた』とあります。山田浅右衛門家は松製品の松の丸薬を製造販売することで大金を得ていたのです。
「吉薗周蔵手記」を解読する「落合莞爾」の情報はwikiに記載されています。『落合莞爾(1941年-)は、和歌山県和歌山市出身の経営コンサルタント、歴史研究家。[略歴]東京大学法学部卒業後、住友軽金属を経て経済企画庁調査局へ出向、住宅経済と社会資本の分析に従事し、1968-69年の「経済白書」の作成に携わる。その後、中途入社第1号として野村證券に入社、商法および証券取引法に精通し、日本初のM&Aを実現する。1978年に落合莞爾事務所を設立後は経営・投資コンサルタント、証券・金融評論家として活躍。近年は日本史に関する見解を「落合秘史」として発表し続けている』。
落合莞爾は、紀州の生まれであり、紀州徳川家で八咫烏の仕事をしていた過去世があると見ています。落合莞爾に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ゴム」と伝えられました。本人か替え玉かが重要ではなく、隠された闇の真実を表に出すことが重要です。過去世で真実を隠す八咫烏の仕事をしていた人が、今世で隠した真実を表に出して広めることをするのです。それがカルマの解消でもあります。闇と光は表裏一体であり反転は可能です。過去世で闇の仕事を成した魂を持つ人が今世で闇を終わりにする仕事を行います。日本の隠された闇の真実が表に出てくることを願っています。