茶の起源を調べると《茶の歴史 お茶の起源》がありました。『茶の発祥地は中国と言われ、もともと薬、解毒剤として用いられていました。「お茶を一服」という言葉はこれに由来すると言われています。本草学の始祖、今日の漢方薬の基礎を築いたとされる神農帝が山野を駆け巡り人間に適する野草や樹木の葉などの良否をテストするため、1日に72もの毒にあたり、そのたびに茶の葉を用いて解毒したという話はお茶を知る上で重要です。ヨーロッパに伝わったのは大航海時代に入る16世紀。中国広東にやってきたポルトガル人が最初にお茶を味わった西洋人だと言われています。
17世紀に入ると新たにアジア交易の覇権を握ったオランダによってお茶(紅茶)がイギリスに輸出されるようになりました。お茶が世界の隅々にまで普及したのは20世紀に入ってからです。日本の最古の、信頼でき得る喫茶記録は、「日本後記」にある「弘仁6年(815年)4月22日、僧・永忠が嵯峨天皇に茶を奉った」というものです。当初、お茶は大変な貴重品でした。それが普及したのは、鎌倉時代に臨済宗の開祖・栄西がお茶を中国・宋から持ち帰ったのがきっかけです。当時のお茶は抹茶に近く、江戸時代に入ってからは煎茶が茶の中心となり、庶民の口にも入るようになりました』。
神農帝は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人で、人々に医療と農耕の術を教えたといいます。神農大帝と尊称され、医薬と農業を司る神とされています。《牛の赤目が置かれた暗闇の地》などのワークで神農は、エゴの闇の役割だと分かっています。自然の光である植物の茶は、中国で発祥した時からエゴの闇で封印されてきたと感じます。日本のお茶の起源は、鎌倉時代の臨済宗の開祖・栄西です。過去のワークで、日本の仏教の各宗派の開祖は光を降ろしていましたが、調べてみると、臨済宗開祖の栄西だけはワークを行っていませんでした。
wikiによると、『明菴栄西(1141年-1215年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる』と記されています。栄西の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「悪魔崇拝」と伝えられました。京都と鎌倉に五山の寺院を構える臨済宗は、日本の仏教宗派の中で一番深い闇の役割をしてきたと感じます。知覧茶のウィキペディアの外部リンクの項目に「南九州市茶業振興会」のリンクが掲載されていました。
「南九州市茶業振興会」をワーク対象に選びました。公式サイトには、『設立の趣旨 平成19年12月1日南九州市が誕生し、同時に日本最大の産地が誕生し茶品評会でも4連覇を達成するなど数々の賞を受賞してきた。日本茶をリードする産地として、茶業関係者が相互扶助の精神に則り、これまで以上に誇りと責任を持ち茶業に取組み、南九州市茶業の振興と産地の安定的発展を図るものである』とあります。南九州市茶業振興会の会長・西垂水学(にしたるみまなぶ)と本部所在地(鹿児島県南九州市知覧町郡)に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。
「中国工作員」「いいです」と伝えられました。お茶の起源が中国であることから中国由来の工作の闇が憑いて回るようです。知覧茶の産地である南九州市の首長の闇の解除・統合のワークを行う必要がありました。その地域の松利権を支配するのは首長と地元の国会議員だと見ています。南九州市の市長は「塗木弘幸(ぬるきひろゆき)」です。wikiによると、『塗木弘幸(1953年-)は、鹿児島県知覧町出身の政治家。鹿児島県南九州市長(1期)。1972年(昭和47年)3月、鹿児島県立甲南高等学校卒業。
2007年(平成19年)4月、知覧町議会議員選挙において無投票で初当選。同年12月1日、川辺町・知覧町・頴娃町が合併して南九州市が発足。これに伴って行われた南九州市議会議員選挙に出馬し当選。2011年(平成23年)、2期目の当選。2015年(平成27年)12月13日に行われた南九州市長選挙で初当選、12月23日に市長に就任した』と記されています。wikiに掲載された塗木弘幸の画像の下には「内閣府地方創生推進室より公表された肖像」とあるので、南九州市には、既に「Q」の掃除が入っていると推測しています。
南九州市長・塗木弘幸に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「中国」と伝えられました。知覧茶の関連ワークを終えて、「八女茶」の関連に移りました。八女茶のwikiには、八女茶の発祥について記されています。『茶の栽培法及び喫茶法は、延暦24年(805年)に最澄、延暦25年(806年)に空海が、唐から比叡山に伝えた説と、建久2年(1191年)に栄西が宋から平戸と背振山に伝えた説などがある。日本の茶業界では日本文化の真骨頂といえる「茶禅一味」、千利休に繋がっていく系譜から、日本に「茶」と「禅」と伝えた栄西を日本茶の祖としている。
八女茶の発祥は、明から帰国した栄林周瑞禅師が応永30年(1423年)に黒木町の霊巌寺を建立するとともに、明式(釜炒り)茶の栽培・喫茶法を地元の庄屋 松尾太郎五郎久家に伝えたのをはじまりとしている。その後 室町、戦国安土桃山時代と茶は山間部集落で細々と生産された』。《霊巌寺の奇岩 お茶の里公園》によると、『霊巌寺は応永13年(1406)出羽国の学僧・栄林周瑞禅師が、この地を訪れた際、かつて修業をした中国の蘇州霊巌寺の景観によく似ていたことから寺の創建を発願されたという。奇岩は、男岩の他にも女岩・仲人岩・地蔵岩・座禅岩などがある。
それらが形成するこの地の風景により寺が建立され、加えて栄林周瑞禅師が中国から持ち帰った茶の実を栽培し、その製法を伝授したことが八女茶の始まりとされている』と記されています。霊巌寺の奇岩には男根を象った岩もあり、松取りの闇を意味する「裏インドの闇」が置かれた証となっています。八女茶の始祖・栄林周瑞禅師と八女茶発祥の地の臨済宗妙心寺派の寺院・霊巌寺に光を降ろすと「裏インド」「裏インド」と伝えられました。自然豊かな光の地である八女の地を封印するために裏インドの闇が置かれたのです。(つづく)