Lenin_sq_Khabarovsk


新潟市のwikiの対外関係の項目には、新潟市の姉妹都市として、ロシアの「ハバロフスク市」と「ウラジオストク市」が記載されています。過去のヒプノセラピー《隠された加賀の松果体システムが表に出て最後になる》には、『黒い粒々、白い粉はハバロフスクから来る。小松』と伝えられました。支配層の裏の金儲けのツールとなるアドレノクロムの丸薬や薬物がロシアのハバロフスクと石川県小松市に関係していることが示唆していました。「ハバロフスク」と「ウラジオストク」について追及していくことにしました。

 

wikiに記載されているハバロフスクの情報をまとめると以下のようになります。『ハバロフスクは、ロシア極東部の都市で、ハバロフスク地方の中心都市である。人口は約62万人でロシア極東部では最大である。アムール川の右岸中流域に位置し、ウスリー川との合流点のすぐ下流にある。人口は、2019年に行われた国勢調査によると617,473人であった。地域経済の中心として機械工業や金属工業、木材業が発達している。[歴史]1918年にはシベリア出兵により日本軍がハバロフスクを占領した。

 

その後、1920年に日本軍は撤退して極東共和国が成立し、1922年に日本軍がシベリア出兵を終了すると、ハバロフスクはソビエト政権の支配下に入った。ソビエトもロシア帝国と同様にハバロフスクを極東開発の拠点として重視し、機械工業や金属工業などの重工業や、シベリアの豊かな森林資源を利用した木材業などの工業建設を進めた。また、極東では数少ない外国人開放都市と指定され、シベリア鉄道を利用する旅客や貨物の重要な拠点となった』。日本軍はシベリア出兵以前からロシアに松利権拠点を設けていたと感じます。

 

wikiの「日本との関係」の項目には具体的な情報が記されています。『1917年のロシア革命前の、明治の終わりころから昭和初めまでおよそ600人の日本人居留民が滞在するなど日本とは交流は非常に盛んであった。日本人居留者は商業、運輸などのサービス業に従事していた。その代表的な人物は竹内一次であった。竹内は1896年にハバロフスクに渡り、写真屋を開業した。さらに、1910年には外国人で初めてハバロフスク・ウスペンスキー教会保有土地にロシア正教会の許可の元、大日本帝国極東貿易を設立した。

 

大日本帝国極東貿易はホテルレストラン 百貨店の機能を持つ複合ビルで貴金属商ローゼンベルグ商会(スイス人)と衣服、靴、雑貨などの販売をしていた。1918年から1920年には日本軍がハバロフスクを占領した。一方、第二次世界大戦後のシベリア抑留では多くの日本軍将兵がこの近辺でも強制労働に従事させられ、その中の多くがこの地で没した』。ハバロフスクの日本人のキーマンは、大日本帝国極東貿易の設立者・竹内一次のようでした。コトバンクに竹内一次の経歴が記されています。

 

『竹内一次 タケノウチ カズツグ 明治・大正期の軍事探偵 生年慶応47(1868) 没年昭和2(1927)918日 出身地三河国(愛知県三谷町) 経歴明治27年雑貨商人としてハワイへ渡ろうとするが失敗。のちウラジオストクで写真館を開業、信用を得て同地居留民の団長となった。31年から川上操六参謀総長の命により秘密諜報任務に携わる。日露戦争中は一時帰国したが、戦後再びシベリアへ渡り、ハバロフスクで写真館を開いて諜報関係の軍人を援助した。大正10年日本のシベリア撤兵と共に帰国、東京で暮らした』。

 

竹内一次は、旧日本軍と繋がった工作員だったと感じます。《HISTORY | 日本極東貿易》には、大日本帝国極東貿易の社屋、竹内一次と大日本帝国軍の要人の写真が掲載されており、『大日本帝国極東貿易の社屋は「大日本帝国軍ハバロフスク司令部」であった』ことが記されていました。大日本帝国極東貿易の設立者・竹内一次(1868-1927)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。大日本帝国極東貿易は、八咫烏によるロシアのハバロフスクの松利権拠点だったと見ています。

 

起源は、曽祖父がひらいたロシア帝国時代の百貨店》には、大日本帝国極東貿易の設立者・竹内一次の曾孫で、日本極東貿易(大阪市中央区森の宮)オーナーの竹内登について書かれています。竹内一次の松利権が子孫に引継がれていると感じました。日本極東貿易オーナー・竹内登に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「先代の利権を引継ぐ人」と伝えられました。ハバロフスクの大日本帝国極東貿易と関係していた「貴金属商ローゼンベルグ商会(スイス人)」が気になりました。日本極東貿易の公式サイトにローゼンベルグ商会の言及があります。

 

1900年初頭 帝政ロシア時代 ハバロフスクの「日本極東貿易」で宝飾品を販売していた スイスの宝石商「ローゼンベルグ商会」が現代によみがえります。ロシア正教が実権を握り贅沢を極めていたロマノフ王朝時代のロシアに 納得の行く宝飾品を持って行くのは至難の業だったようです。そこには宝石のクオリティはもちろん、デザインそして技術性の高い宝飾品を 世界中から集める目利きが大事だったのでしょう。残念な事にローゼン・ベルグ商会の店舗自身はロシア革命の為、ロシアでの営業は終了しました。

 

当時のロシアはロシア正教と言う独自宗教と言う問題もあり文化的にも閉鎖的な国であり外国人が仕事をしていく事は非常に困難だったようです』。《企業活動網と並行して構築された地球を覆う松利権の暗黒ネットワーク》などの記事に書きましたが、支配層の松利権網は、企業活動と並行して構築されてきました。表のビジネスと裏の松のビジネスです。生の松、松の缶詰、アドレノクロムなどの運搬・販売の隠れ蓑として表の製品を用いてきました。ローゼンベルグ商会の宝飾品は松利権のカモフラージュだったと感じます。(つづく)