住友不動産のwikiの沿革には、『1949年-財閥解体により旧住友本社の不動産部門を譲り受け、泉不動産株式会社を設立する。所有ビルは東京住友ビル、神戸住友ビル、京都住友ビルの3棟。第16代住友吉左衛門が株式13.9%を保有する筆頭株主となる』と記されていました。「第16代住友吉左衛門」をネット検索すると住友家16代当主の「住友友成(すみともともなり)」と分かりました。wikiによると、『住友友成(1909年-1993年)は、住友家16代当主で、最後の住友本社社長。
アララギ派の歌人でもあり、斎藤茂吉、川田順(住友本社の重役)とも交流があった。男爵。東山天皇の男系7世子孫である。[来歴]1926年(大正15年)3月2日、父友純が没する。同年3月9日に住友吉左衛門を襲名し、5月1日、男爵となる。住友合資社長に就任。以降、住友銀行や住友信託、住友生命、住友倉庫などの取締役に就任する』とあります。住友家16代当主の住友友成の父親は、住友家16代当主・住友友純(すみともともいと)です。住友家15代当主・住友友純の情報はwikiに記載されています。
『住友友純(1865年-1926年)は、住友家15代当主。茶人、風流人としても有名で、号を春翠と称す。男爵であり、東山天皇の男系7世子孫である。東山天皇の5世孫である従一位右大臣徳大寺公純の第6子として生まれた。友純は父の膝下にあって、父より日本書紀を学び、詩経、書経をよみ、国語、小学、貞観政要をよむ。1884年(明治17年)に東京神田錦町の徳大寺邸に移り、学習院に入学した。友純は1885年(明治18年)に学習院中学科生となり、1887年(明治20年)には法律選科に入って五年級まで進んだ。
住友家では、1890年(明治23年)5月、別子銅山200年の祝賀式を新居浜で、次いで6月、祭典を別子山であげ、10月には大阪で祝賀会を開いたが、そのあと11月23日、住友家12代吉左衛門友親(48歳)が死去し、ついで同月30日、13代吉左衛門友忠(19歳)が没する。とりあえず12月には住友友親の母登久が14世を継ぐことになる。明治維新の混乱期を切り抜け、再建に努力してきた住友総理事広瀬宰平は、その甥で補佐の地位にあった伊庭貞剛と協力し、その後継者の選定にあたる。そして徳大寺家の一子友純に着目し、それを迎えることにする。
1892年(明治25年)4月18日、友純(29歳)は、長女満寿(19歳)の婿として住友登久の養嗣子となった。この直前に友純は学習院法律選科を5年生で退学している。以来大阪鰻谷(現大阪市中央区東心斎橋)の住友本邸に住むことになる』。wikiには『11月23日、住友家12代吉左衛門友親(48歳)が死去し、ついで同月30日、13代吉左衛門友忠(19歳)が没する』とあり、8日間に住友家の当主の父親と若い息子が続いて死去しています。明らかに不審死であり、暗殺の可能性が高いと感じました。
住友吉左衛門のwikiによると『13代目友忠は、明治23年11月30日、腸チフスにより、学習院在学中に死去』と記されています。住友家の12代当主・住友友親(1843年-1890年)、13代当主・住友友忠(1872年-1890年)、14代当主・住友登久(すみともとく・友親の妻・友忠の母)、15代当主・住友友純(1865年-1926年・徳大寺公純の子で登久の養嗣子)、16代当主・住友友成(1909年-1993年)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「台湾」「光も闇も決まってない」「殺された」「半島」「半島」と伝えられました。
ワークから15代当主の住友友純と16代当主の住友友成が朝鮮半島派であるので、住友家当主の地位が中国派八咫烏から朝鮮派八咫烏に替えられた形になっていると感じます。朝鮮派八咫烏が中国派八咫烏だった住友家を乗っ取ったということです。14代当主・住友登久(友親の妻・友忠の母)が殺されたとすると、乗っ取った首謀者には、少なくとも婿養子となった15代当主・住友友純の父親・徳大寺公純(とくだいじきんいと)の「徳大寺家」が関係すると推測します。徳大寺公純の経歴はwikiに記載されています。
『徳大寺公純(1821年-1883年)は、幕末期の公卿(権大納言後に内大臣・右大臣)。東山天皇の男系六世子孫である。[来歴]鷹司輔煕の庶長子(密子)。祖父鷹司政通の子として秘匿された上で、徳大寺実堅の養嗣子となり家督を継ぐ。1858年、通商条約勅許問題が起こると、条約勅許に反対したため、井伊直弼による安政の大獄で「悪謀企策の者」として逮捕され、謹慎50日間を命じられた。しかし1ヶ月間で罪を許されている。その後は公武合体運動を推進して二条斉敬らと共に活躍したが、和宮の徳川家茂降嫁に関しては反対の立場を取ったため、幕府から圧力を受けて失脚している』。
徳大寺公純は、中国派・朝鮮派に通じる同和派八咫烏で、謀略専門の工作員だったと感じます。徳大寺公純のwikiの家族・親族には、『子には徳大寺実則(宮内大臣)、西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)、末弘威麿(財団法人立命館理事)、住友友純(15代住友吉左衛門)、中院通規、福子(加藤泰秋室)、永(相良頼基室)、中子(相良頼紹室)、照子(阿部正功室)らがいる。なお、公純はなぜか生前には正式な婚姻を行わなかったために、これらの子供達はいずれも庶子扱いとされている』とあります。
父親の徳大寺公純、子の徳大寺実則(とくだいじさねつね・1840年-1919年:明治天皇の侍従長)と末弘威麿(すえひろたけまろ・1860年-1927年)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「渡来人」「工作員」「八咫烏」と伝えられました。また、《1羽のカラスがヒントになった八咫烏のワークと工作拠点の歴史が潜む京都大学》から西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)は、伊藤博文の子分であり、ワークで「完全に日本DSを作った人」と伝えられています。日本DS=朝鮮派八咫烏と捉えています。
末弘威麿のwikiの内容と画像から現在、光の講座を受講中の方の過去世だと直感しました。そのことを本人に話すと同意しました。受講者の方のヒプノセラピー《八咫烏の裏の仕事が絡んで毒殺された祖母》では、父方の祖母が毒殺されており、住友家当主の不審死と重なります。住友家の12代・13代当主は毒殺された可能性が高いと見ています。住友家当主の中国派八咫烏から朝鮮派八咫烏へのすり替えは、徳大寺公純と西園寺公望を中心にした徳大寺家・西園寺家による現場工作の可能性が高いと見ています。(つづく)