住友家の14代当主・住友登久(すみともとく)についてネット検索すると《南光院》がヒットしました。『明治21年に住友登久(住友家14代当主)が自ら浄財を投じて、立派な神社形式の本殿を建立して奉納しました』と記されています。wikiによると『南光院は、愛媛県新居浜市別子山にある高野山真言宗の寺院である。1901年(明治34年)別子山保土野にあった圓通寺がこの境内に移転された。[歴史]1694年(元禄7年)、土居上野を巡錫していた南光院快盛法印が、住友家の要請により別子銅山に迎えられ、鉱夫の精神教化や村人の救済に努めたのが始まりである。
快盛は1706年(宝永3年)62歳で亡くなったが、民衆に慕われていた快盛は、寛政年間(1789年-1801年)に別子銅山の守護神・南光八幡大菩薩として社殿を建立され祀られた。1874年(明治7年)、神仏分離と共に圓通寺の鎮守となった』と記されています。別子銅山は、愛媛県新居浜市にあった銅山で、日本三大銅山の一つです。元禄4年(1691年)の開坑から1973年(昭和48年)の閉山まで283年間、一貫して住友家が経営し、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となりました。日本三大銅山とは、別子銅山(愛媛県)、足尾銅山(栃木県)、日立鉱山(茨城県)です。
南光院の源流となる阿波の山伏「快盛法印」(修験僧)、所在地(愛媛県新居浜市別子山余慶551-7)、現住職(妻鳥良全)に光を降ろすと「ここは松取りの場」「いいです」「分からないでやっている。守っている人」と伝えられました。別子銅山は、四国の剣山と石鎚山の間にあり、中央構造線を封じる役目もあります。別子銅山は、他の炭鉱・鉱山と同様に隠された松取り場所です。山に坑道を掘って石炭や銅などの鉱物を採掘するのですが、石炭や鉱物を採掘すると同時に、労働者の松取りを行う工作を行ってきました。一石二鳥以上に利益を得る闇の仕組で成されていました。
住友家にとって別子銅山は松利権を生む地であり、表と裏の金儲けの重要拠点でした。この記事を書いている時に、左手の人差し指と中指の間に弱い痒みを覚えて、サインだと感じました。人差し指は母、中指は兄(長子)であり、住友家の14代当主・住友登久と徳大寺から婿養子で入った15代当主・住友友純の間の人物であり、住友友純を住友家の当主に選定した人物だと感じました。住友友純のwikiには、『明治維新の混乱期を切り抜け、再建に努力してきた住友総理事広瀬宰平は、その甥で補佐の地位にあった伊庭貞剛と協力し、その後継者の選定にあたる。
そして徳大寺家の一子友純に着目し、それを迎えることにする』と記されています。住友総理事の広瀬宰平と甥の伊庭貞剛が中国派八咫烏だった住友家を朝鮮派八咫烏にすり替える工作に大きく絡んでいると感じます。wikiによると、広瀬宰平は、住友家家長により別子銅山の総支配人に抜擢され、初代住友総理人に就いています。また、伊庭貞剛は、第二代住友総理事であり、「別子銅山中興の祖」と言われます。八咫烏は松利権集団であり、中国派と朝鮮派の戦いは、松利権の獲得争いとも言えます。
事前調査の段階で、住友家を調べてまとめている時に、右手薬指に強い痛みがありました。経験的に、右手は純粋の闇、左手はエゴの闇だと分かっていました。薬指は、「薬」を意味します。住友家の調査とワークを行っていたので、住友グループの製薬関連の会社を調べる必要性を感じました。ネットで住友グループの製薬会社を調べると「住友ファーマ」だと分かりました。住友ファーマの情報はwikiに記載されています。『住友ファーマ株式会社は大阪府大阪市中央区に本社を置く住友グループの大手製薬会社。日経平均株価の構成銘柄の一つ。
[概要]2005年10月1日に大日本製薬と住友製薬が合併して大日本住友製薬株式会社として誕生した。住友製薬の流れから住友化学の子会社であるとともに住友グループの一社で、住友グループ広報委員会に加盟している。2022年4月1日に住友ファーマ株式会社に社名変更した。[商標]旧・大日本製薬は、商標・社章として「マルピーマーク」を使用していた。元々は大日本製薬合資会社の商標で、マルピーマークの丸は日の丸を、Pは「Pharmacy(薬)」を意味し、製薬業界での雄飛を意味している。
俗に、Pは同社が販売していた覚醒剤・ヒロポン(Philopon)を意味していると言われているが、事実ではない。大日本住友製薬の発足に際し、光を基にした「グリーンプリズム」が商標として採用されたが、住友ファーマへの社名変更に際し、旧住友製薬で用いられていた井桁マーク(住友井桁)に再度変更された』。「覚醒剤・ヒロポン」がキーワードでした。wikiの主力製品・医療用医薬品には、『ヒロポン(メタンフェタミン系製剤) 1941年(昭和16年)の発売当初は一般用医薬品として市販されていた。
しかし、1951年(昭和26年)以降、「覚醒剤取締法」で原則的には禁止薬物に指定された。施行後は、同法で特別の許可を受けた医療機関に対してのみの販売となっている』と書かれています。覚醒剤の「ヒロポン」は、戦後の1941年から「覚醒剤取締法」ができる1951年まで市販されていました。「覚醒剤取締法」によって裏のルートが確立されていったと感じます。住友ファーマの代表取締役社長・野村博と大阪本社所在地(大阪市中央区道修町2-6-8)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS」「いいです」と伝えられました。
住友ファーマの前身の1つの大日本製薬は『1897年(明治30年)5月14日-「大阪製薬」として会社設立。1898年(明治31年)-「大日本製薬合資会社」と企業合併し、社名を大日本製薬株式会社に変更』とあります。もう1つの前身である住友製薬は、『1984年(昭和59年)2月6日-住友化学工業(現・住友化学)の医薬事業部門と、稲畑産業の医薬事業販売代理店を分離・統合し、「住友製薬」設立』と記されています。稲畑産業については、過去にワークを行っていました。
《支配層の松利権の仕組の秘密を隠蔽するために創作されたノーベル賞の源流「アルフレッド・ノーベル」》でのワークで、稲畑産業の創業者・稲畑勝太郎、代表取締役社長執行役員・稲畑勝太郎は「とっても汚い人。何でもやった」「DS」と伝えられました。政府は染料の国産化を促すため、1926年、後の住友化学株式会社のファインケミカル事業の基礎となる日本染料製造株式会社を大阪に設立し、稲畑勝太郎は社長に就任しました。古くから染料・繊維の裏には、松利権があり、住友化学と稲畑産業は関わっていたのです。(つづく)