Gobi_Desert_dunes


スウェーデンの探検家「スヴェン・ヘディン」のwikiには、目に留まる内容があります。『1899年から1902年にかけて、タリム盆地および中部チベット湖沼地方の北部を探検した。その間、1900年に古代都市楼蘭の遺跡と干上がったロプノールの湖床を発見し、よく知られている「さまよえる湖」説を唱えるに至った。多くの文書・遺物を取得してカラコルム山脈を越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠を越えてカシュガルに至り、フェルガナのアンディジャンに到着、ロシア経由で帰国した』。

 

『これらの成功は、パトロンであるロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、ノーベル家の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。他に大谷探検隊で知られ、浄土真宗本願寺派法主も務めた大谷光瑞からの援助も受けていた』『1934年にロプノールの復活を自らの目で確かめた後、1935年に帰国したが、途上立ち寄ったドイツでアドルフ・ヒトラーの歓待を受け、その後数回にわたってナチス幹部と接触を持ち、自国に対するドイツの動向を探った』。

 

スヴェン・ヘディンは、ロシア皇帝ニコライ2世、ノーベル家、浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞、アドルフ・ヒトラーなどと親交があり、資金援助を受けていました。その裏には、支配層の松利権網があったと感じます。スヴェン・ヘディンは、タリム盆地および中部チベット湖沼地方の探検の裏で、チベットの純粋な人や子供を対象にした松工作を成したと推測します。タリム盆地のタクラマカン砂漠は昔から広大な湖のある水の地でしたので、その周辺には、古くから数々の都市や国家が成立してきました。スヴェン・ヘディンが発見した古代遺跡の楼蘭(ろうらん)もそうです。

 

楼蘭は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部に、かつて存在した都市、及び国家です。「さまよえる湖」ロプノールの西岸に位置し、シルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって、交易により栄えました。シルクロードは、ユーラシア大陸の交易路で、表では絹織物などの貿易のための運搬路ですが、その裏では、生の松や発酵塩漬けなどの松製品を運ぶための道でもあったと感じます。楼蘭は、いわゆる「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラが有名です。ヒプノセラピーから、ミイラは松取り(松果体収穫)の工作だと分かっています。

 

逆に言えば、ミイラが存在する場所は、古くから松取りが行われてきた場所の証でもあります。発見されたミイラの事例は、古代エジプト、中国、アンデス、中央アジア、日本などがあります。日本では岩手県の中尊寺金色堂に歴代の奥州藤原氏のミイラが存在します。ミイラが存在する場所は、本来の光の地底が闇にされたことを示唆するものです。光の地底とは、鍾乳洞をイメージすると分かりやすいですが、鍾乳石から水が染み出して生まれる場所です。水が生まれる場所は、地上ではなく地底なのです。

 

故に、タリム盆地のタクラマカン砂漠・チベット湖沼地域や中尊寺金色堂のある岩手県には、奥羽山脈や北上山地の山岳下に重要な光の地底があることになります。スウェーデンの探検家のスヴェン・ヘディン(1865-1952)と浄土真宗本願寺派第22世法主の大谷光瑞(1876-1948)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS。工作員」「工作員」と伝えられました。いずれも、八咫烏の工作員でもあったと感じます。黄砂の3大発生地は、「タクラマカン砂漠」の他に、「ゴビ砂漠」と「黄土高原」があります。

 

ゴビ砂漠は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠です。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130km2で、世界で4番目の大きさを誇ります。黄土高原は、中華人民共和国を流れる黄河の上流および中流域に広がるおよそ400,000平方kmから640,000平方kmの広さの高原です。この数千年間に起こった戦乱、森林伐採、過剰な開墾・放牧などにより、黄土高原の植生は破壊され、土壌の流失が加速し、一帯の地形は無数の水流が削ったために溝だらけのような状態になっています。

 

黄砂の3大発生地のゴビ砂漠黄土高原に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと、いずれも「いいです」と伝えられました。チベットの闇について調べていくと、現在のダライ・ラマ14世の1代前の「ダライ・ラマ13世」の時代に、多くの日本人が関与しています。ダライ・ラマ13世と周辺の人物を追うことにしました。ダライ・ラマ13世の情報はwikiに記載されています。『ダライ・ラマ13(1876-1933)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。1878年にダライラマの生まれ変わりと認定された。

 

当時のチベットは大清帝国と大英帝国とロシア帝国の勢力争いの渦中に巻き込まれていた。後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。

 

1910年に今度は清軍が、イギリスの影響を排除するためとしてチベットに侵攻。13世はシッキム、ネパールと転々としインドに向かった。清は13世の廃位を宣言するが、1911年の辛亥革命により清は滅亡。しかしその後も清軍の勢力が残り、チベットの民族政権が清軍を駆逐するには1912年までかかった。清に代わった中華民国は13世の地位を保証したため、19131月にラサへ帰還。1914年に英国とシムラ条約と締結する一方で、インド亡命中から近代化に着手した』。ダライ・ラマ13世の時代のチベットは、戦乱という松取りの草刈り場にされたことが分かります。

 

19世紀終わりから20世紀初めのチベットは、中国の清国、英国、ロシアという3つの帝国の工作の標的にされていました。ダライ・ラマ13世の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「トカゲ。宇宙人」と伝えられました。wikiにはロシアに関して、『ダライ・ラマ13世はロシアの恐ろしさを知らず、イギリスに対抗するため接近し、チベットに住むロシア国籍の僧侶(ブリヤート人)アグワン・ドルジェフにロシア皇帝ニコライ2世との仲介を依頼し、ドルジェフは1900年にロシア皇帝と面会した』とあります。

 

アグワン・ドルジェフ(1854-1938年)は、ブリヤート人(モンゴル系民族)のチベット仏教僧。ダライ・ラマ13世の教師であり、外交面においては「ロシアこそシャンバラである」と主張しロシア帝国寄りの姿勢をとりました。1913年、チベット・モンゴル相互承認条約をチベット側の代表として締結しました。スターリン政権下の1937年、モンゴルおよび日本のスパイ容疑で逮捕され、翌1938年に獄中死したとされますが、偽装死の可能性もあると感じます。アグワン・ドルジェフは、松工作員だったと捉えています。

 

ニコライ2世(1868-1918)は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝です。日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たしますが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招きました。19187月にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども銃殺されたといいます。ニコライ2世は、スヴェン・ヘディンのパトロンであり工作員だと見ています。一家の銃殺死は真実ではなく、偽装死の可能性が高いです。アグワン・ドルジェフニコライ2世の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」「工作員」と伝えられました。(つづく)