1898(明治31)年に設立された大日本製薬株式会社の場所は、現在の大阪市中央区道修町(どしょうまち)です。「道修町」は製薬会社の源流の地であり、薬の街と呼ばれています。製薬業界にとって重要な地の「道修町」が気になり、調べていきました。《ファイザー日本進出の原点となるファイザー田辺を設立した八咫烏・日本DSの三菱グループ・田辺三菱製薬》のワークでは、道修町にある薬の神様(薬祖神)を祀る少彦名(すくなひこ)神社に光を降ろすとヘビのエネルギー体が光に還っていきました。
古くからヘビは「薬師」とも言われています。《奈良 東大寺の解除 ~巡礼の旅(429)~》では、奈良巡礼の旅の際に薬師寺に光を降ろすと「大きな蛇が出てきて昇っていった。蛇の大元」と伝えられました。ヘビのエネルギー体は、爬虫類型宇宙人の中で最上位に位置しており、ワニやトカゲよりも上位種です。製薬や薬の闇の管轄は、ヘビのエネルギー体が司っています。wikiによると『道修町は、大阪府大阪市中央区の町名。現行行政地名は道修町一丁目から道修町四丁目。江戸時代以来の「薬の街」で、現在でも薬問屋や製薬会社が150軒ほどある。
[歴史]江戸時代に、清やオランダからの輸入薬(唐薬種)を一手に扱う薬種問屋が店を出し、江戸幕府公認の株仲間「薬種中買仲間」を結成する。また、享保7年(1721年)には日本を産地とする薬(和薬種)を検査する和薬種改会所が設けられた。日本で商われる薬は、いったん道修町に集まり、品質と目方を保証されて全国に流通していった。その関係で現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが道修町通りの両側に多いことで知られている。武田薬品工業、塩野義製薬、カイゲンファーマ、小林製薬、田村薬品工業、住友ファーマ、扶桑薬品工業、田辺三菱製薬が本社を構えている。
薬種問屋には、コニシのように、狭義の医薬品でなく化成品の道に進んだ企業もある。医薬品業界に関しては外資系も近畿を拠点とするところが多く、バイエル(大阪府大阪市北区)、アストラゼネカ(大阪市北区)、P&G(兵庫県神戸市中央区)、イーライー・リリー(神戸市中央区)などが挙げられる』と記されています。江戸時代、和薬種改会所が開設されると、日本で商われる薬が道修町に集まり、品質と目方を保証されて全国に流通していったのです。道修町は、日本の製薬の祖となる場所と言えます。
《船場・わが町 その5 船場の商業と商人(2) 薬の町・道修町》には、『道修町の製薬会社の中で、武田、田辺、塩野義はその歴史の古さから、「道修町の御三家」と呼ばれていました。「武田薬品工業」は1781年創業。会社設立は1925年(大正14)。「田辺三菱製薬」は、「田辺製薬」は、初代田邊屋五兵衛が1678年(延宝6)土佐堀に薬種問屋を創業したのが始まりです。道修町の現在地に店舗を構えたのは1855年(安政2)、11代田邊五兵衛のときでした。「塩野義製薬」の創業は1878年(明治11)、会社設立は1919年(大正8)です』とあります。
道修町の製薬の祖となる会社は、やはり、武田薬品工業、東京田辺三菱製薬、塩野義製薬の3家のようです。道修町について調べていると、右横腹に痛みを覚えました。場所を教えるサインであり、「和歌山」と直感しました。道修町は薬の街であり、覚醒剤「ヒロポン(メタンフェタミン)」だけでなく、麻薬など含む裏世界の薬物も扱われていたと感じます。《日本一のアヘン生産地だった紀州和歌山》にありますが、昭和初期、和歌山県は日本一の生アヘンの生産地でした。有田郡、日高郡が中心で、熊野地方でも生産されました。
1928年(昭和3年)の統計では、和歌山県の農家から出荷された生阿片の量は8091.8kgで、全国の生産量の63.1%が和歌山県産でした。1935年(昭和10年)には日本のモルヒネ生産額は世界4位、ヘロイン生産額は世界1位(世界の生産額の4割)となり、コカの葉から作られるコカインの生産額も日本は世界1位でした。日本は世界一の麻薬生産国だったのです。戦前、日本が世界一の麻薬生産国だった事実は隠蔽されてきました。日本は敗戦後、米国GHQの支配下に置かれて、麻薬利権が水面下に置かれ隠されたのです。
道修町にアヘンの手がかりがあるはずと感じて、ネットで調べていくと《道修町・大日本住友製薬「アヘン蒸留缶」》の記事を見つけました。『まちライブラリー@大阪府大の帰り、道修町・大日本住友製薬のショーウィンドウ展示が充実してました。以前は麻薬製造用蒸留缶のみの展示でしたが、濾過機と海老江工場模型、それに液晶デスプレイで映像を流してます。日本国は第2次世界大戦が終結するまで、全世界90%のアヘン製造国だったことは意外と知られていません。
その日本国アヘン製造の原料、ケシ栽培日本国内生産量1928年第1位の和歌山県と第2位の大阪府だけで98%を占め、北摂の茨木市辺りでは一面ケシ畑が広がっていたと言われます。その一翼を担っていたのが道修町の製薬会社でした。処で、第2次世界大戦後市販されてた多くの覚醒剤の代名詞とも言われる「ヒロポン」は、大日本製薬の登録商標だったんですね。以前はアヘン蒸留缶の説明が有りましたが、今は蒸留缶とだけの説明版、しかし蒸留缶にはクッキリ「麻薬用」の表示が残ってます』。
大日本住友製薬の前身が大日本製薬株式会社です。道修町の大日本製薬株式会社が「アヘン蒸留缶」を有しており、アヘンを含めた麻薬を製造をしていた証でもあります。《道修町・大日本住友製薬「アヘン蒸留缶」》には、白地の手書きで「麻薬用」の記されたアヘン蒸留缶の写真が掲載されています。「海老江工場」とは、現在の大阪市福島区海老江の大日本製薬の工場です。やはり大日本製薬は、戦前から覚醒剤「ヒロポン」とアヘンなどの麻薬を製造していたことが分かります。(つづく)