7月23日(日)の光の講座(フォローアップ)の時に背中左側に痒みがあり、後で見ると湿疹が2つできていました。ワークのサインであり、場所的には浜松市か豊橋市かなと思っていました。翌日の24日(月)の9時半頃に電話が掛かってきていて、スマホに着信履歴があることに気づきました。すぐに、折り返し電話すると、女性の声で「つついです」と名乗り、間違い電話だったことを伝えてきました。間違い電話は、湿疹の場所を教えてくれるヒントだと直感しました。ネットで「つつい」を「筒井」にして検索すると全国各地に同じ地名がありました。
その中でも、名古屋市東区に「筒井」があり、この場所だと感じました。間違い電話によるヒントが時々あります。誰がどのようにして仕組んでいるのか不思議でなりませんが、ワークを行う上での重要なヒントになります。ネットで名古屋市の「筒井」を調べると筒井(名古屋市)のWikipediaがありました。『筒井は、愛知県名古屋市東区にある町名。現行行政地名は筒井一丁目から筒井三丁目と筒井町4丁目。住居表示は筒井一丁目から筒井三丁目が実施済み、筒井町が未実施。
[地理]名古屋市東区の中央部に位置し、東は車道町、西は徳川・代官町、南は葵、北は新出来に接する。[歴史]町名の由来 江戸時代に建中寺の堀から湧いていた清水が水筒先の方へ流れ、その通路に当たる門前の広場に石の樋が埋められていたことによる。[沿革]筒井町 1871年(明治4年)-愛知郡筒井町が成立。1878年(明治11年)12月20日-名古屋区編入により、同区筒井町となる。1889年(明治22年)12月20日-名古屋市成立に伴い、同市筒井町となる』。名古屋市の「筒井」は水の場所でした。
「江戸時代に建中寺の堀から湧いていた清水」から、湧水地の場所が「建中寺(けんちゅうじ)」と分かります。建中寺の情報はwikiに記載されています。『建中寺は、愛知県名古屋市東区筒井にある浄土宗の寺院。山号は徳興山。本尊は阿弥陀如来。江戸時代を通じて代々の尾張藩主の廟が置かれていた。[歴史]創建 慶安4年(1651年)に第2代尾張藩主徳川光友が、父である初代藩主徳川義直の菩提を弔う為に、また、尾張徳川家代々の菩提寺として尾張藩全ての人々の心のよりどころとする為に、下総国結城の弘経寺住持であった成誉廓呑上人を開山として義直の位牌を祀る本堂などが建立された。
創建当時は周囲は石垣と堀で囲まれ、4万8千坪(158,400平方メートル)の境内に多くの堂が立ち並ぶ規模を誇った。境内の東側には大きな松林があり、鬼門の方角は京都御所の「猿が辻」のように凹ませてあった。江戸時代を通じて無本寺(別格本山)として、塔頭寺院と末寺も多数有していた』。湧水の場所である建中寺は、尾張徳川家の菩提寺でした。神社や寺院などの宗教施設は、水のエネルギーを遮断する闇の役割を持ちます。権力者が裏で松取りを行うことで光の精霊が闇に反転するからです。
尾張徳川家の菩提寺の闇を解除するために、まず、尾張徳川家の当主の御魂を上げることにしました。初代尾張藩主・徳川義直(1601年-1650年)、第2代尾張藩主・徳川光友(1625年-1700年・建中寺建立者)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「裏インド」「公家の血が入っている」と伝えられました。尾張徳川家の現(22代)当主・徳川義崇(とくがわよしたか・1961年-)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。全ての当主の御魂が上がるよう意図して尾張徳川家の系図にも光を降ろすと「いいです」と伝えられました。
建中寺の住職・村上真瑞と所在地(愛知県名古屋市東区筒井1丁目7-57)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」「いいです」と伝えられました。建中寺のある名古屋市の水のエネルギーを流すために、松利権を有する市長・観光協会会長・商工会議所会頭のワークも進めました。名古屋市の市長は河村たかしです。経歴はwikiに記載されています。『河村たかし(1948年-)は、名古屋市東区出身の政治家。名古屋市長(第32・33・34・35代)、地域政党の減税日本代表。衆議院議員(5期)、裁判官訴追委員会第二代理委員長、総務省顧問を歴任した。
[経歴]河村鈊男(かねお)の長男として出生。父・鈊男は、第二次世界大戦時には大日本帝国陸軍第101師団歩兵第101旅団指令部伍長として中国大陸に滞在。1945年(昭和20年)の終戦直後から南京市の栖霞寺に滞在し、1946年(昭和21年)帰国。1948年(昭和23年)に河村紙業合資会社を設立し、初代社長となった。名古屋市立桜丘中学校を経て、1967年愛知県立旭丘高等学校卒業。1年間の浪人を経て、1968年(昭和43年)一橋大学商学部入学、1972年(昭和47年)に卒業。一橋大卒業後は家業の古紙回収業・卸売業の河村商事株式会社に入社。
大学時代に知り合った妻と1975年に結婚。その後、1977年(昭和52年)ころから検事を志すようになる。旧司法試験の第二次試験論文式試験でいずれも不合格となり断念。人生再チャレンジをできる社会を実現するため政治家を志すようになり、民社党委員長春日一幸の秘書となったが、春日の逆鱗に触れたため、民社党を除名となった。政治家を志して自由民主党に入党する。1992年(平成4年)に自民党を離党し、翌1993年(平成5年)7月18日の第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で旧愛知1区から立候補し初当選した。
2005年(平成17年)9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、民主党劣勢の中、自民党候補などを大差で下し5選。2009年(平成21年)1月25日、名古屋市長選挙へ再度かつ今度は「不退転の決意」での出馬を表明。4月26日、名古屋市長に初当選(1期目)』。名古屋市長・河村たかし、公益財団法人名古屋観光コンベンションビューロー理事長 (常勤) ・飯田貢前(名古屋市上下水道局長)、名古屋商工会議所会頭・嶋尾正(大同特殊鋼株式会社 相談役)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ゴム。光の役割」「中国」「中国」と伝えられました。
名古屋市長の河村たかしは、光の役割の替え玉になっているようです。次に、名古屋城と名古屋市を流れる1級河川の庄内川(水源・夕立山)のワークを行いました。城も水という光のエネルギーをせき止める役割です。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏が築城し、徳川家康が天下普請によって築城しました。以降明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家17代の居城でした。名古屋城所在地(愛知県名古屋市中区本丸1-1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。
庄内川は、岐阜県南東部および愛知県北西部を流れ、伊勢湾(名古屋港)に注ぐ河川で、一級水系庄内川の本流です。水源は、岐阜県恵那市の夕立山です。水源の夕立山と庄内川全体に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。信長・秀吉・家康の3人の天下人を輩出した愛知の地はトヨタにも繋がる繊維業が盛んな大きな松利権のある場所です。その中心となるのが名古屋城のある名古屋市です。江戸時代からの尾張徳川家の支配層の闇が終わり、名古屋の地が本来の姿に変わることを願っています。