「自分の足元を掘り起こす」というメッセージから、地元の場所ですぐに思いついたのが「円山(まるやま)」です。円山は、北海道札幌市中央区にある標高225 mの山です。円山公園の通りを挟んだ山の大部分は円山原始林として保護されています。《札幌 円山 円山原始林 ~巡礼の旅(101)~》にありますが、2014年5月に、円山に登って光を降ろすワークを行って、八十八箇所の観音像などの石仏たちのエネルギー体を光に統合していました。龍神たちも光に還っていき、円山も開かれたと見ていました。
当時は、どういう風にして円山の光を封印していたのか分かっていませんでしたが、今は分かります。信者を含めて多くの人たちを集めて松取りをするための八十八箇所の観音像を置いたのです。円山の八十八箇所の情報については、wikiに記されています。『円山の登山道は1914年(大正3年)に上田万平・善七兄弟によって開かれた。その際、上田善七が成田山神栄寺住職と相談し、道内に居住する四国からの移住者に呼びかけて四国八十八箇所に因んだ88の観音像を登山道に沿って建立することとし、円山八十八箇所と呼ばれている。
その後も献像は続けられ登山道にある観音像は200体以上になっている。円山には、八十八カ所入口から円山山頂(約1km)、円山山頂から円山西町入口(約0.7km)、円山西町入口から八十八カ所入口(約1km)の周回コースの自然歩道(円山ルート)が整備されている。八十八カ所入口から円山山頂までのルートは八十八カ所ルート、円山西町入口から円山山頂までのルートは動物園ルートと呼ばれている。毎年5月が山開きで、10月が山納めである。円山は大都市のそばとしては豊富な自然を残している。
八十八箇所の参拝者、家族連れ・グループでのハイキング、バード・ウォッチングなど動植物の観察等の目的で多くの市民が登山に訪れる。山頂からは天気が良ければ札幌市街を一望できる』。円山の登山道と八十八箇所の観音像をつくったのは、上田万平・善七の兄弟です。上田万平の情報はwikiに記載されています。『上田万平(1841年-1917年)は、北海道札幌市中央区円山の基礎を築いた開拓者たちの中心人物。同様に後継人として円山の発展に尽くした上田善七の兄である。
[来歴]1841年(天保12年)南部藩士・中村甚四郎の次男として生まれるが、弟の善七とともに上田家の養子となり以後は当家の姓を名乗る。1855年(安政2年)藩命を受けて室蘭陣屋に1年ほど在籍する。このとき15歳。1871年(明治4年)3月、開拓使の募集に応じて家族ともども円山に入植し、村の組頭を務める。万平は開墾を手がける一方で、飢饉に備える必要性を感じ、米を貯蔵するための倉庫を各地に建てた。また、妻に酒雑貨屋を開かせたところ、石工たちが顧客となって繁盛する。
1875年(明治8年)、円山村副総代に選出。1876年(明治9年)には総代に就任し、以後30年間にわたり各種の公職を歴任する。1884年(明治17年)、開拓使の廃止後に貯蔵していた準備米が大蔵省へ移管されたため、「円山積穀会」を設立して民間による食糧備蓄を始める。1910年(明治43年)、万平の功績を称えて、藻岩村が大通西20丁目に「上田一徳翁之碑」を建立する。1914年(大正3年)、藍綬褒章受章。また同年には北海道庁の許可を得て、善七とともに円山登山道を切り開いた。1917年(大正6年)没。享年77』。
上田万平は、円山の登山道を開いて八十八箇所の観音像を置いた人物であり、円山地区の基礎を築いた開拓者たちの中心人物でした。南部藩士の家に生まれた八咫烏の工作員だったと感じます。上田万平の弟・善七の情報もwikiに書かれています。『上田善七(1854年-1932年)は、北海道札幌市中央区円山の基礎を築いた開拓者たちの中心人物。同様に円山の発展に尽くした上田万平の弟である。[来歴]1854年(安政元年)、南部藩士・中村甚四郎の3男として生まれるが、兄の万平ともども上田家の養子となり以後は当家の姓を名乗る。
1871年(明治4年)3月、開拓使の募集に応じて万平とともに円山に入植する。1874年(明治7年)、開拓使の農業現術生となるが、命令により約1年間の樺太警備に回される。帰還後は開拓使刑法局囚獄課詰となり、また農業の勉強を再開して1級農業現術生となる。その後いったんは開拓使民事局で働くが、1880年(明治13年)に退職する。1883年(明治16年)には円山教育所の世話係となり、学田経営にあたる。また1900年(明治33年)には学務委員となる。1914年(大正3年)、北海道庁の許可を得て、万平とともに円山登山道を切り開いた。
1915年(大正4年)、円山消防組を組織し、その組頭を務める。さらに藻岩村衛生組合長としても働く。一方、農業面でも精力的に活動を続けており、村農会長や畜牛組合藻岩村を歴任する。1932年(昭和7年)没。享年79』。上田万平と上田善七の兄弟の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」「兄の汚い仕事をやっていた現場」と伝えられました。やはり、上田万平と上田善七は八咫烏の工作員であり、兄の上田万平から言われた松の現場仕事を弟の上田善七が担っているようでした。
基本的には、上田万平・善七兄弟は八咫烏の現場工作員のサンカだと感じます。上田万平と上田善七の兄弟が南部藩士・中村甚四郎の子供に生まれて「上田家」に養子に入ったのがポイントです。この「上田家」が八咫烏サンカの中核だと見ています。「上田家」についての調査とワークは途中ですが、「(初代)上田音吉」に関係していると見ています。《創価学会の創立者が参加する大日本皇道立教会というロスチャイルドの工作組織》には、創価学会の設立と上田家の人物が関わっていることが記されています。
《上田音吉からなる家系について》には、「上田家の家系図」が掲載されていますが、日本船舶振興会の創始者・笹川良一、北朝鮮を建国したとされる畑中理(金策)、創価学会の創始者・牧口常三郎、大本教の創始者・出口なお、出口王仁三郎などの重要工作員に血縁で繋がっています。(初代)上田音吉の系図に連なる人たちは、サンカの工作員だと感じます。上田万平・善七兄弟の「上田家」と(初代)上田音吉の「上田家」のルーツは信州長野の上田市であり、上田城を築いた真田氏だと見ています。(つづく)