南部藩の八咫烏だった上田万平・善七兄弟について調べていくと《上田万平と善七》のサイトを見つけました。『上田兄弟は、札幌神社創設以来物心両面からの奉仕活動を続け、今日の北海道神宮の基礎を築いた功労者として高く評価されています』と記されています。上田万平・善七兄弟は、八十八箇所を置いて円山を封じる役割だけでなく、北海道神宮の基礎を築く役割も担っていました。また、札幌市中央区の「円山」について調べていると《新札幌市史デジタルアーカイブ》に行き着きました。
『兵村外では火薬庫、銃器庫の番兵、のちの屯田兵本部、大隊本部の当番、風紀衛兵勤務等が割当てられた。大隊本部には分隊単位で毎日交代派遣されたが、その中でも火薬庫番兵が負担だったという。藻岩山麓(現中央区旭ヶ丘)にある火薬庫にははじめ常駐の番人を置いた・・』と記されていました。屯田兵の「火薬庫」が藻岩山麓の現・札幌市中央区旭ヶ丘に置かれていました。屯田兵は、旧日本軍と同様に北海道開拓という松取り工作のための部隊です。火薬庫の場所は、松取りの闇が置かれた場所でもあります。
《松取り・食人の闇の作業場を連想する弾薬庫や魚雷艇庫の地下壕がある高知の旧日本海軍・宿毛基地》などから「火薬庫」がある所は、軍による松取りが行われていた場所だと分かっています。火薬の主原料である硝酸カリウム(塩硝)は、肉や臓器の塩漬けの防腐剤になります。現在もハム・ソーセージの保存料として使用されています。ネットで調べても藻岩山麓の屯田兵の「火薬庫」の具体的な場所は特定できませんでした。現在の住所では、「札幌市中央区旭ヶ丘」であり、伏見稲荷神社の西側の区域になることは分かりました。
藻岩山麓に火薬庫を置いたのは、松取りの闇で藻岩山を封印する目的があったのです。円山には「八十八箇所」が置かれましたが、藻岩山には「三十三観音」が置かれています。藻岩山は札幌市南区にある標高531mの山です。2014年3月に藻岩山の現地を訪れてワークを行っています。登山口の観音寺と山頂にある浄土観音寺藻岩観音奥之院などに光を降ろしました。その時のワークの内容を《札幌 藻岩山 ~巡礼の旅(48)~》に書いています。《三十三観音像めぐり〜藻岩山~》には、藻岩観音奥の院と三十三観音の由来についての情報があります。
『明治十四年、浄土宗新善光寺の初代住職大谷玄超上人は、藻岩山を信仰の場として多くの人々に開放する事を願い、新西国三十三観音像の安置を思い立ちました・・』。藻岩山を封じる役割の三十三観音を置いたのは、浄土宗寺院の新善光寺の僧侶でした。浄土宗の新善光寺の調査とワークを行う必要がありました。新善光寺の情報はwikiに記載されています。『北縁山廣度院(ほくえんざんこうどいん)新善光寺は北海道札幌市中央区南6条西1丁目にある浄土宗の寺院。山号は北縁山、院号は増上寺と同じ廣度院。
「札幌市史」や「日本歴史地名大系」によれば、札幌の「五大寺院」の一つであるという。また、北海道における浄土宗の「中心的寺院」、「開教の代表的寺院」であるともされる。[歴史]1882年(明治15年)、大谷玄超が浄土宗鎮西派の大本山である三緣山 廣度院 增上寺の特命開教師として北海道を巡教した折、札幌に寺を創立することを計画し、1884年(明治17年)、南6条西3丁目の薄野遊郭内に「新善光寺」の公称の許可を得て開山。その後、1901年(明治34年)に現在地南6条西1丁目に移転する。この際、「豊平館」で知られる料理人の原田伝弥も寺院の創設に協力している。
1886年(明治19年)檀家の助力により大谷玄超は寺の裏手にある藻岩山に、山頂までの参道を整え、石像を揃えて、1888年(明治21年)に盛大な山開きをおこなった。この参道は、現在も登山道として使用されている。1901年(明治34年)、二代目住職の林玄松は、西国三十三カ所観音霊場を模倣して、藻岩山に三十三体の観音像を配置して霊場として整備した。当初は仏像の準備が間に合わず、観音像が描かれた掛け軸を木の枝にぶら下げてあり、それを拝みながら山を登るスタイルであったが、僧らが準備できた観音像を1体ずつリュックに入れて山まで担ぎ上げて順次整備を進めた。
山頂には観音像を祭った1坪の石堂も建てられた。また、境内にあった太子堂は、札幌の職人たちに広く信仰された。1946年(昭和21年)に建物が焼失したが、1964年(昭和39年)に五代目住職の太田隆賢によって本堂が再建された。1976年(昭和51年)時点で養老院や附属病院、幼稚園なども経営していた。2019年現在(令和元年)において、関連法人として、新善光寺学園しろいし幼稚園、社会福祉法人札幌慈啓会、清璋寺、東京別院霊源寺がある』。wikiの『1884年(明治17年)、南6条西3丁目の薄野遊郭内に「新善光寺」の公称の許可を得て開山』の一文に目が留まりました。
薄野遊郭内に寺院を建立したということは、子供を犠牲にした松利権の闇があると感じました。遊郭には支配層の松利権の闇が絡んでいます。《遊郭が絡む子供の松果体収穫の闇の仕組》には、遊女が身籠った胎児や新生児が松取りの犠牲になる可能性を書いています。札幌すすきのは、日本初の官設遊郭が置かれた場所でした。《すすきのの歴史》には、『すすきのは現在3000以上ものお店が軒を連ねる巨大歓楽街。しかし150年前は茅が密生する原生林でした。上の写真は、手前が茅の原、その奥に点在する建物は全て“遊郭”です。
明治時代の地図を見ても遊郭エリアには20軒ほどが軒を連ねていたようです。その「すすき遊郭(1871年〜1918年頃)」は国の政策でつくられた日本初の官設遊郭でした。北海道の開拓が過酷なあまり逃げ出す開拓者もいたため、その足止め策として開拓使が整備しました。町の治安維持のためでもあったそうです』と記されています。日本三大歓楽街の1つである「札幌すすきの」は、水の場所である光の地でした。その重要な光を封印するために遊郭がつくられて、多くの寺院が置かれたのです。
新善光寺の開山/初代住職の大谷玄超(增上寺の特命開教師)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。新善光寺の現住職・太田眞琴(社会福祉法人 札幌慈啓会理事長)と所在地(北海道札幌市中央区南6条西1丁目2)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「色情。反社。金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。新善光寺は、1925年(大正14年)、札幌市伏見町に養老院「札幌養老院」を、1947年(昭和22年)には、「札幌養老院附属病院」も設置しました。1969年(昭和44年)に「札幌養老院」から「社会福祉法人札幌慈啓会」と改称しています。(つづく)