
海女(あま)の仕事をする人たちが居住する地域が石川県輪島市海士町(あままち)です。海士町の情報はwikiに記載されています。『海士町は、石川県輪島市の大字である。能登半島沖合48kmにある離島である舳倉島と、本土側の地区である天地から構成される。海士町は筑前の鐘崎から渡来した海士により開かれた地域であり、元来住民は天地と舳倉島のあいだで季節移住を行い、潜水漁を中心とする漁業を営んだ。[歴史]郷土史家である森田平次(1823年-1908年)は「能登志徴」において「舳倉島旧記」を引用した。
海士町民の祖である筑前国上座郡金ヶ崎(鐘崎)の海士は、永禄12年(1569年)、知人を訪ねて能登国羽咋郡赤住村、鳳至郡吉浦村・皆月村に渡ってきたと記している。同書によれば、漁民らは当初、春から能登で漁を営み、秋になると帰っていたが、文禄3年(1595年)より鳳至郡鵜入浦に借家するようになる。元和3年(1617年)には、海士の又兵衛が当時の加賀藩主である前田利常に拝謁し、光浦に住まって漁業を営む許可を得る。利常は寛永20年(1643年)に舳倉島・七ツ島運上の御印書を与えた。
さらに慶安2年(1649年)10月16日には輪島鳳至町領内に1000歩の土地を与えた。これが現在の天地である』。上記の内容から海女(海士)は、加賀藩主前田家の配下で海や船上で松取りの現場仕事をしていた人たちだと推測しました。陸地の山で松取りの現場仕事をする人たちがサンカ(山窩)です。海洋を仕事場にして現場仕事をしていたのが海女だと見ています。《「6で知る」のヒントが導く「安倍晋三の背後」と「統一教会の血分け・6マリア」からの子供の松取り工作の闇》には、御食国(みけつこく)のことを書いています。
御食国は、若狭国(福井県)・志摩国(三重県)・淡路国(兵庫県)などで、天皇に海産物と共に赤子など食人のための生贄を献上していた国です。古来、神社などに奉納する食物には、生贄も含まれていると見ています。天皇や大名などの権力者に捧げる海の食物を採取するのが海女だと捉えています。サンカ(山窩)も海女(海士)もルーツは渡来人の権力者に支配された先住民の人たちです。輪島市海士町の住民は、氏神である奥津比咩神社の氏子であり、氏寺である法蔵寺の檀家です。海士町のwikiに以下の記載があります。
『海士町自治会は16のアタリから構成される。各アタリから氏神である奥津比咩神社の氏子総代、氏寺である法蔵寺の檀家総代などが選ばれる。・・海士町民は全員が浄土宗の信徒であり、10月15日の十夜法要までにはジカタに戻った』。神道や仏教の宗教によって支配されている集団でもあります。昔は、松取りの現場仕事を担うサンカの人たちを束ねる組織が仏教などの宗教団体でした。海士町の住民が信仰している奥津比咩(おくつひめ)神社と法蔵寺のワークを行うことにしました。奥津比咩神社の情報は《石川県神社庁公式サイト》に記載されています。
『奥津比咩神社 御祭神:田心姫命(たぎりひめのみこと) 鎮座地:輪島市海士町舳倉島高見2 由緒:延喜式内社にあてられる古社。往古は西宮あるいは舳倉権現と称えたという。近世初期、筑前国より渡来の海士又兵衛以下12名が舳倉島を根拠として漁業を営むようになって深く崇信し、海士の故郷宗像神社の信仰と相まって、当社を産土神と仰ぐようになった。近年になって漁業の近代化、化のため、昭和50年、市内鳳来山麓に社殿を新築し、本社と末社の祭神の御分霊を奉斎して祭祀を行う。
当社所蔵の千石積み渡海船の模型一隻と板図2枚は市重要文化財。宮司:大竹亮(輪島前神社 宮司)』。奥津比咩神社の祭神が田心姫命は、宗像三女神の1柱であり、海女(海士)の人たちが宗像三女神を祀る宗像神社のある北九州地方から移ってきたことを示唆しています。舳倉島の奥津比咩神社の宮司・大竹亮と所在地、および宮司が兼務する輪島前神社の所在地(石川県輪島市輪島崎町1-200)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」「いいです」と伝えられました。
法蔵寺は、海士町にある浄土宗寺院です。《お寺情報》には、『住職:髙田公道 所在地:石川県輪島市鳳至町鳳至丁66』と記されています。法蔵寺の住職・髙田公道と所在地に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。今の神社や寺院のトップはエゴと金の闇に覆われている感じです。舳倉島のグーグルマップを観ていくと、「舳倉島深湾洞遺跡」と「龍神池」が目に留まりました。サイト情報によると、深湾洞遺跡は、舳倉島で最も古い遺跡で、弥生時代前期の遺跡です。大量のナイフや槍状の石器が出土しています。
深湾洞遺跡は舳倉島の東側の海岸線沿いにあります。海岸線には、陸地の地下である地底の入口があると見ています。本来の地底は光の場所なので、海岸線の洞窟を闇にして地底を封じていると感じます。《輪島たび結び》には、竜神池の言い伝えについて記載されています。『輪島港から定期船で85分の舳倉島にある竜神池は周囲約180mあり、底が竜宮城に通じていて決して水が枯れることは無いといわれています。藩政末期に一旭上人(いっきしょうにん)という僧が島にやってきて、毎晩観音堂に島民を集めて説教をしていました。
いつも末座に若い女がじっと聞き入っているので、ある晩一旭上人がたずねると、女は「私はこの池に棲む竜なのです。難破船の錨の毒にあたって死んだのですが、未だに成仏できずにいます。どうか助けて下さい」と涙を流してたのむのだった。そこで翌朝、島民が池の水をくみ上げたところ、池の底から大小二体の骨が見つかりました。骨は樽四杯分にもなりました。この母子の竜骨は法蔵寺分院に葬られました。人々は父親の竜が現在も近くの海に生息していると考え、神として祭って無他神社としました』。
昔からの言い伝えや伝説は、そのものが真実ではなく、真実を探求する上でのヒントだと捉えています。竜神池の場所では、生贄や松取りが行われていたと感じます。竜神池と舳倉島全体に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」「いいです」と伝えれました。これまでの調査とワークから日本の離島では、古くから支配層の生贄や松取りが行われていることが分かっています。暗闇にするために、離島には大事な光あり、松取りの闇で封じてきたのです。能登半島と舳倉島が開かれて本来の光の姿になることを願っています。(おわり)