Awa-jinja,_shaden


右手中指の先の痛みのサインからたどり着いた場所が、房総半島の先端部の千葉県館山市にある「安房(あわ)神社」です。安房神社の情報はwikiに記載されています。『安房神社は、千葉県館山市大神宮にある神社。安房国一宮。[概要]千葉県南部、房総半島最南端部の吾谷山(あづちやま)山麓に鎮座する神社である。伝承では、神話時代に阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(いんべうじ、斎部氏)による創建といい、「安房」の国名・社名はこの阿波忌部の移住・開拓から起こったといわれる。

 

古代の安房国はアワビの貢進地として朝廷から重要視され、安房国の中心的神社である安房神社もまた古くより重要視された。特に、全国でも数少ない神郡が設置された点や、出雲国造(出雲大社奉斎氏族)・紀伊国造(和歌山の日前國懸神宮奉斎氏族)に並び安房国造が律令制下でも祭祀を担った点、および宮中の大膳職にも「御食津神」として祀られていた点が特筆される。中世以降は安房国の一宮に位置づけられ、明治維新後も近代社格制度で最高位の官幣大社に位置づけられたように、歴史を通じて崇敬を集めた古社になる。

 

境内は、抜歯習俗を示す人骨多数を包含した洞窟遺跡の発見でも知られ、その遺跡(現在は埋没)は千葉県指定史跡に指定されている。また、社宝のうちで八稜鏡・円鏡などの文化財を伝世するほか、阿波忌部の開拓に因んだ祭礼が現在まで続けられている。[祭神]本宮(上の宮)の祭神は次の7柱。主祭神:天太玉命(あめのふとだまのみこと)- 忌部氏(斎部氏)祖神。相殿神:天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)- 后神。忌部五部神:櫛明玉命(くしあかるたまのみこと) - 出雲忌部の祖。天日鷲命(あめのひわしのみこと)- 阿波忌部の祖。

 

彦狭知命(ひこさしりのみこと) - 紀伊忌部の祖。手置帆負命(たおきほおいのみこと)- 讃岐忌部の祖。天目一箇命(あめのまひとつのみこと)- 筑紫忌部・伊勢忌部の祖』。安房神社は、阿波国(徳島県)から船で渡ってきた忌部氏の歴史が色濃く残る神社です。忌部氏は祭祀を司っていたことが分かっており。裏の松取りの仕事を担っていたと見ています。そして、忌部氏は秦氏の範疇になると感じていました。ネットで調べると《われら忌部は秦氏である/裏神道高官との対話より》にも忌部氏が秦氏であることが書かれています。

 

『われら忌部は秦氏である。秦氏には色々な職業、家系がある。例えば、政治関係を担当した秦氏は藤原家がある。経済担当は三井家があり、三井家が神宮遷宮時の費用を捻出しておった。武家担当の秦氏には源平等がある』。 個人的には、八咫烏の表の支配が藤原氏が担い、裏の支配を秦氏が担っていたと見ています。忌部氏による松取りは、先住民を犠牲にした松取りです。近代のように松の丸薬、缶詰、アドレノクロムなどの松製品ではなく、天皇などの権力者に子供などの生の松を献上していたと推測しています。

 

wiki高橋氏文の記述には、『安房浮島宮に至った景行天皇(12)に対して、磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと:膳氏遠祖)が堅魚・白蛤(うむぎ:ハマグリ)を膾・煮物・焼物にして献上した。天皇はこれを誉め、永く御食を供進するように命じ、また六獦命に大刀を授けるとともに大伴部(おおともべ)を与えた。さらに諸氏族・東方諸国造12氏から枕子(赤子)1人を進上させ六獦命に付属せしめた。そしてこの時に上総国の安房大神を御食都神(みけつかみ、御食津神)として奉斎したが、この神は大膳職の祭神でもあるという』と記されています。

 

安房神社の安房は「阿波国」の起源となる穀物の「粟(あわ)」であり、食べ物を意味します。天皇が食する海産物や赤子を献上する神社だと捉えています。安房神社にある「洞窟遺跡」は、先住民が居住していた洞窟だと見ています。20154月の千葉巡礼の旅で安房神社のワークを行っています。《千葉 安房神社 ~巡礼の旅(214)~》には、『縄文遺跡のある場所が気になり、移動しました。縄文遺跡の場所は、建物の裏にあり、殆ど隠された場所でした。場所を探している途中で、目の裏に激痛が走りました。かなり深い闇になっていると感じました。

 

案内板には、洞窟があり、人骨が出てきたが場所を移したと記されていました。「この場所は神聖な場所。縄文の人たちは怒っている」と伴侶が伝えて来ました。忌部氏の洞窟に歩いて移動しました。岩壁に穴を開けて、祠を設けていました。「さっきの場所からここに移した」と伴侶が言いました。私は祠の前で、縄文の人々の魂が光に還るよう意図して光の柱を降ろしました。「大丈夫」と伴侶が伝えてくれました』。安房神社が位置する場所は、房総半島の先端の山塊(吾谷山)の場所であり、昔は先住民が居住していた所だと感じます。

 

「もしかすると先住民は山の洞窟や地底で暮らしていたのかもしれない」と直感しました。《正体を隠して闇を広げた丹波弥十郎》にありますが、サンカのボスと見ている丹波弥十郎は、山腹にある洞穴に住んでいたという山窩(さんか)にちなむという説があると記載されています。サンカの源流は先住民です。サンカは、渡来人の支配下に置かれた先住民が仲間の先住民の松取りを行う仕事をしていた人たちです。とすると、やはり、山の洞窟が先住民の棲家だと感じます。「先住民×洞窟」でネット検索すると《洞窟の中に小学校や住居が並んでいるミャオ族の村》がヒットしました。

 

サイトには洞窟で生活するミャオ族の子供たちの写真が掲載されています。『ミャオ族(モン族)はベトナム、ラオスなどに住んでいる少数民族で、中国では貴州省や湖南省、雲南省、四川省などに住んでいます。中でも、貴州省安順のミャオ族は100名ほどの村人が洞穴に村を作って住んでいるそうです。・・水は石からしたたってくるものを利用しており不足しがちなため、貯水池を掘っている。約100人いる村人はほぼみんなが洞窟の中に居住。地方自治体は外に移住して欲しいと説得したのですが失敗したそうです』とあります。

 

ミャオ族などの先住民は、洞窟が石から水を生み光の場所と分かっていたのだと思います。忌部氏などの渡来人によって日本の先住民の「やまとびと」は松取りの犠牲になり、光だった地底が闇に変えられたのです。安房神社はその拠点の1つだと捉えています。これは房総半島の先端の安房神社だけでなく、前述した能登半島の先端にある須須神社も同じだと思います。安房神社の宮司・岡嶋千暁所在地(千葉県館山市大神宮589)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松喰い」「いいです」と伝えられました。(つづく)