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日本航空(JAL)についての調査とワークを進めました。日本航空の情報はwikiに記載されています。『日本航空株式会社は、東京都品川区に本社を置く日本の航空会社。2020-2022年度で国内線、国際線ともに旅客数第1位なのに対し、20234月から6月までは旅客数第2位。日本で最も長い航空会社としての歴史を持つ。コーポレートスローガンは「明日の空へ、日本の翼」。イギリスのスカイトラックスによる航空会社の格付けで、実質最高評価の「ザ・ワールド・ファイブ・スター・エアラインズ(The World's 5-Star Airlines)」の認定を得ている。

 

[概説]JALグループを代表する中核事業会社として、一般には旧持株会社同様、日本航空、日航、JAL(ジャル)と通称される。識別信号(コールサイン)は「JAPAN AIR(ジャパン・エアー)」を使用。世界的な航空連合である「ワンワールド(oneworld)」に加盟している。JALグループ再編の一環として2004年に日本航空株式会社から、国際線と一部の国内線を担当する会社として「日本航空インターナショナル」に改編し、続いて国内線の多くを担当する日本航空ジャパンを吸収合併して、JAL便の運航を受け持つ単一の事業会社となった。

 

20101月に会社更生法の適用を申請、更生手続の過程で持株会社「株式会社日本航空」や金融事業会社「ジャルキャピタル」などを吸収合併した。ANAホールディングス傘下の全日本空輸(ANA)とあわせて「航空大手2社」などと呼ばれる』。源流となる日本航空は、1951(昭和26)8月に設立されました。詳細は日本航空の歴史-wikiに記載されています。『[設立]第二次世界大戦が1945(昭和20)9月に日本の降伏で終結した後、日本の占領に当たった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止された。

 

やがて、1950(昭和25)6月にGHQにより日本の航空会社による運航禁止期間が解除されることとなり、1951(昭和26)1月に日本航空創立準備事務所が開設された。同時期に他にも4社が国内航空運送事業免許の申請の意向を見せたために、行政指導により最終的に日本航空に一本化され、1951(昭和26)3月に国内航空運送事業の免許を申請。その2か月後に営業免許を取得したことを受けて、1951(昭和26)8月に「日本航空株式会社」として設立された。日本政府主導による半官半民の体制で、設立当初の本社は現在の銀座日航ホテルがある場所に置かれた』。

 

日本の航空会社として最も歴史が古い日本航空は終戦後の日本を実質的に支配していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と深く関わっていることが窺えます。wikiによると、日本航空の初代社長は柳田誠二郎(1893-1993年・日本銀行副総裁)、初代会長は藤山愛一郎(1897-1985年・日本商工会議所会頭)です。初代会長・藤山愛一郎については、《砂糖の闇に繋がる松システムの渋沢栄一設立の日本精糖と鈴木商店の北九州門司の大里精糖所》のワークで光を降ろしており、「日本DS」と伝えられています。

 

日本航空の初代社長・柳田誠二郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。GHQは実質的には米軍であり、米国の軍隊として支配層の松利権網の維持拡大のための現場仕事を担っていました。日本航空は、GHQの傘下の松の空路運搬の役割を果たすための会社だったと感じます。それ故に、現在でも米軍が深く関係しているのは自然の流れです。それ故に、日本航空の初代社長・会長は、米国と絡む支配層の工作員ということです。日本航空の役員は公式サイトに掲載されています。

 

取締役6人、社外取締役3人、監査役2人、社外監査役3人の構成になっています。JALの役員を調べる過程で、役員報酬の情報が掲載されているサイトに行き着きました。《IR BANK 9201日本航空》によると、『【取締役】20233月期の取締役6名に対する報酬総額は16300万円増額で37100万円(1人当たり6183万円)。【監査役】20233月期の監査役2名に対する報酬総額は前回同額の4900万円(1人当たり2450万円)。【社外役員】20233月期の社外役員6名に対する報酬総額は100万円減額で6300万円(1人当たり1050万円)』となっています。

 

IR BANK 9202ANA HD》にはANA HDの役員報酬が掲載されています。ANA HDの役員報酬は、JALよりも取締役で約2000万円低い額になっていますが、社外役員で約600万円高くなっています。日本航空の取締役会長は、植木義晴です。経歴はwikiに掲載されています。『植木義晴(1952-)は、京都府出身の実業家、操縦士、元俳優、日本航空株式会社会長。[来歴]父は昭和期の剣戟映画の大スターであった俳優の片岡千恵蔵で、千恵蔵が49歳の時に生まれた子である。5人兄弟の4番目。実兄に植木基晴、実姉に女優の植木千恵がいる。

 

1956年からの3年間、「黒田騒動」(1956)、「赤穂浪士 天の巻 地の巻」(1956)、「大菩薩峠 第二部」(1958)、「大菩薩峠 完結篇」(1959)など子役としての映画出演もあるが、演技でうまく泣けなかった時に、千恵蔵から頬を叩かれたのをきっかけに俳優を辞めた。京都教育大学附属高等学校卒業後、慶應義塾大学法学部を1年で中退し航空大学校に入学。1975(昭和50)に航空大学校を卒業し、操縦士として日本航空に入社。1994(平成6)DC-10の機長となり、以後、17年間を機長として乗務した。2008(平成20)6月にはジェイエア代表取締役副社長に就任(出向)

 

以後、JALの執行役員に就任するまでボンバルディア CRJ200の機長を務める。2010(平成22)に日本航空が経営破綻した後、当時の会長の稲盛和夫の下、同年に執行役員運航本部長に就任。2012(平成24)215日の臨時株主総会にて取締役に選任され、その後開催された取締役会で代表取締役社長に就任した。「情の植木」と呼ばれて求心力があり、敵を作らない親分肌の人柄が評価されての起用だった。2018124日、同年41日をもって代表取締役社役員から代表取締役会に異動する人事が発表された。

 

201841日付けで、常務執役員整備本部およびJALエンジニアリング代表取締役社の赤坂祐二が新社長に就任し、現取締役会の大賢は会を退任して取締役となる。同年6月、レジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章。202041日、代表権が外れ取締役会長となった。[人物]日本航空では初となる「機長出身の社長」である。「パイロットの資格を持つ航空会社の社長」としては、他にスカイマークの西久保愼一の例があるが「定期便の機長出身の社長」という意味では、国内大手航空会社で初めての例となる』。

 

これまでの調査とワークから、フランスのレジオンドヌール勲章の受章者は支配層の松利権に貢献した人物だと捉えています。日本航空の代表取締役社長執行役員は、赤坂祐二です。経歴はwikiに記載されています。『赤坂祐二(1962-)は、北海道札幌市出身の経営者、技術者。第13代・日本航空代表取締役社長。[経歴]少年時代はプラモデルの戦闘機が好きで狸小路の中川ライター店に通い、中学生の頃から航空機の設計に関心を持った。札幌北高等学校時代はスキージャンプの選手だった。国産航空機の設計に携わりたいと考えたことから、東京大学の航空学科に進んだ。

 

1987年に同大学大学院工学系研究科を修了後、同年技術系として日本航空入社。整備畑を歩み、執行役員整備本部長、JALエンジニアリング社長、常務執行役員などを経て、20184月に社長に就任した。20244月に会長に就任予定。趣味は飛行機のプラモデル作り。客として飛行機に乗ることも好きだという』。日本航空の取締役会長・植木義晴、代表取締役社長執行役員・赤坂祐二に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS。ゴム」「DS。創価。ゴム」と伝えられました。やはり、日本航空の会長・社長は、もう本人ではなく、替え玉のようです。(つづく)