野島崎_-_panoramio_(22)


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1()、右手中指の先に比較的強い痛みを覚え、ワークの場所を教えるサインだと感じました。これまでの経験から右腕は日本列島の房総半島にあたります。これまでも房総半島の先端にあたる館山市や南房総市のワークは幾つか行ってきましたが、まだ、解除・統合する必要のある闇があるようです。日本列島全体を大きな龍体と見ると、房総半島は龍体の右腕になります。封印されてきた日本列島の龍体を解放して自由にするためには、房総半島の先端の闇の封印を解除しなければなりません。

 

思い返すと、龍体の左腕にあたる能登半島の先端も幾度かワークを行ってきました。まず最初に、グーグルマップで房総半島の先端を調べてワークの対象を探しました。右手中指の先なので、該当する場所は、房総半島の先端中央部の「野島崎(のじまざき)」だと思いました。グーグルマップを拡大した野島崎は、伊豆半島の形に似ていました。伊豆半島は私の故郷の伊豆の国市がある半島でもあり、世界地図でいうと「インド」に相当します。インドは「裏インド」という闇の言葉があり、子供などの松取りの闇のメッカとして捉えている場所です。

 

いずれにしても「野島崎」を調べてワークを行っていくことにしました。野島崎の情報はwikiに記載されています。『野島崎は、関東平野最南端に位置する千葉県南房総市の太平洋に突出する岬。岬には野島埼灯台が屹立する。南房総国定公園に含まれる景勝地。岬一帯は白浜野島崎公園として整備されている。[概要]千葉県および関東地方の最南端、丸い台地状で約500メートルにわたって太平洋に突出している。古くから南房総の壮観と崇美を集め、文人墨客が好んで来遊し多くの詩歌や伝説が残されてきた名勝の地である。

 

岬先端の高台にはラバーズ・ベンチが整備されており、朝日と夕日の両方が同時に見えるデートスポットとして人気を集めている。野島崎沖は太平洋から東京湾に入る重要な航路で船舶の往来が多くみられる。古くは房総半島と離れた島であり野島と呼ばれたが、1703年(元禄16年)の元禄大地震で隆起し、地続きとなったという説がある。しかし、元禄大地震の7ヶ月後に書かれた法界寺(白浜海洋美術館付近にかつてあった寺院)届書に「野島崎は津波の後に地形が変わった」と記されている。

 

そのため、地震以前から野島崎は存在しており、すでに一部が陸続きであったという説も存在する。気象庁は野島崎南端を津波予報区における境界として定めており、野島崎南端以西の千葉県沿岸(富津岬まで)を千葉県内房、野島崎南端以東の太平洋沿岸(千葉県部分)を千葉県九十九里・外房としている。[観光]岬内には、豊富な自然環境のほか、博物館や史跡などがある。また、岬を一周する遊歩道が整備されている。〈博物館〉白浜海洋美術館 灯台資料展示館(きらりん館) 〈史跡〉野島埼灯台 頼朝の隠れ岩屋 厳島神社 三峯神社 稲荷社 金比羅宮』。

 

野島崎は、南房総国定公園に含まれる景勝地で、岬一帯は白浜野島崎公園となっている観光名所です。観光名所は、多くの人々を集めて子供や女性をさらって松取りなどの裏の金儲けを行う支配層の工作場所と捉えています。その名残となるのが「頼朝の隠れ岩屋」です。房総半島に逃れて来た源頼朝が雨を凌ぐために隠れた岩屋(洞窟)と言われていますが、個人的には源頼朝などの武士が松取りを行った洞窟と推察しています。神奈川県湯河原町の「しとどの窟」も頼朝が隠れた洞窟と言われています。

 

しかし、ここも松取りを行った場所と見ています。源頼朝が隠れた洞窟は、支配層が松取りを行って光の地底に繋がる入口の洞窟を封印した場所であるヒントとして置かれているのです。「頼朝の隠れ岩屋」の説明が南房総市公式サイトに記載されています。『治承4(1180)の昔、伊豆の石橋山の戦いに敗れた源頼朝は安房に逃れてくると、味方を増やそうと精力的に動き、白浜の野島にも立ち寄りました。野島では、祀(まつ)られている弁天堂に、かたわらの岩へ、「野島山」の三文字を刻み、武運再興の願掛けをしました。

 

しかし、その時、突然の時雨(しぐれ)に合い、近くの岩屋に身を寄せ雨を凌(しの)いだというのです。その岩屋は、「頼朝の隠れ岩屋」と称して、今も残っていますが、いつの頃からか、その岩屋には、深海に棲むという、創造の大蛸(おおだこ)が海神として祀られたのです』。大蛸は、アーク(アークトゥルス)の配下で現場仕事を担っていたタコの宇宙人を暗示しており、岩屋の洞窟を封じる闇の仕事をしていたと感じます。野島崎には、厳島神社、三峯神社、稲荷社、金比羅宮の4つの神社も置かれており、古くから松取り場所だったことを示唆しています。

 

野島崎にある野島岬灯台は、内部の見学が可能な参観灯台であり観光名所の1つでもあります。南房総観光協会公式サイトには、『2018111日、西洋式灯台の建設が始まって150年の節目を祝う式典が都内で開催されました。そのとき令和元年に即位した今上天皇が4歳の頃、野島埼灯台に上皇・上皇后とともにお越しになられた思い出をお話になられました。海上保安部曰く、「皇室が灯台に複数回登ったことがあるのは、野島埼だけ」と普通ではあり得ないことのようです』と記されています。

 

野島崎灯台は、天皇や皇室が幾度か訪れている場所でもあり、それだけ封じる必要がある場所と捉えています。グーグルマップで野島崎を詳細に見ていくと、野島岬を一周する遊歩道には、「砂の女トルソNo.1」と「砂の女トルソNo.2」と題した野外彫刻が置かれています。この2つは、頭と両手がない女性と思われる彫刻であり、個人的には決して心地よいものではありません。松取りや生贄を連想するヒントとして置かれていると感じます。以上のことから、野島崎は、地底に通じる入口がある封印すべき重要な場所だとみることができます。(つづく)