320px-若山牧水の歌碑


日本全国で若山牧水の歌碑はいくつあるのかを調べて見ると《若山牧水|宮崎県郷土先覚者》に情報がありました。『牧水の歌碑は全国に約300(2010(平成22)年現在)確認されており、その数は歌人の中で最も多く、旅を愛した牧水の足跡、人気をうかがうことができます』。さらに、《若山牧水の歌碑》には、『最初に建った歌碑は「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」(昭和4[1929]7月、沼津市千本浜公園)2番目は「かたはらに秋くさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな」(昭和9[1934]11月、長野県小諸市懐古園=小諸城址の石垣に刻書)。

 

3番目が「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬをさなかりし日聞きしごとくに」(昭和10[19353]、延岡市城山公園)。日向市東郷町坪谷の牧水生家裏手には「ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきてをり」、母校の延岡高校(旧制延岡中)には「うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花」の歌碑があるほか、現在は全国で300基を超えているものと思われる。その数は他の歌人を圧倒、断然トップを誇り、3分の1は宮崎県に集中している』と記されています。

 

前述の引用サイトには、都道府県別の若山牧水の歌碑・文学碑の数の一覧表が掲載されています。歌碑・文学碑の合計269の内、故郷の宮崎県が115で最も多く、次に長野県の31、静岡県の28となっています。宮崎が多いのは若山牧水の故郷だからということもありますが、火山のマグマの火のエネルギーを封じる意味があると感じます。長野県、静岡県が次に多いのは糸魚川静岡構造線があり、やはり構造線(断層)からの光の役割のマグマの火のエネルギーを封じるためだと捉えています。《地震で隆起した海岸》から野島崎は火のエネルギーが放出される場所を暗示しています。

 

『千葉県白浜町野島崎。192391日に起こった大正関東地震で1.8メートル隆起した。隆起した波食棚で灯台が取り囲まれている。海岸段丘のなかに、地震によって隆起したものがあることがここでの研究でわかった』と記されています。南房総市の野島崎は、マグマの火のエネルギーが放出される光の場所であり、それを封じるために松工作拠点や歌碑が置かれてきたと見ています。若山牧水は、自分の恋愛を中心とした愛憎の感情を詩歌を創作してきました。歌碑は、術を含めた愛憎の思念が重たい闇のエネルギーとして働くのだと感じます。

 

構造線(断層)や海岸線に歌碑を置くことで闇で固めて動かさないように封じるのです。火の光の場所だけではなく、湧水地などの水の光の場所も歌碑を置くことで封じてきました。歌碑は、海岸線、構造線(断層)、湧水や滝などの火と水の光が放出される場所を封印するために置かれていると推測しています。「ニッポン旅マガジン」の《根本海岸》には、『若山牧水は、明治40年に白浜、明治42年に布良と2度この地を訪れています。最初は、恋人・園田小夜子と熱愛の時期で、二度目は小夜子との別離の後。

 

二度の滞在で、150首にのぼる歌を残していますが、歌集「海の声」、「独り歌へる」、「別離」に収められています』と記されています。若山牧水のwikiには『情熱的な恋をしたことでも知られており、喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである』とあります。そういう意味で、若山牧水の恋愛対象だった女性2人もワークをする必要があります。若山牧水の恋人だった園田小夜子と妻だった若山(太田)喜志子(1888-1968)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「トカゲ」「普通の人」と伝えられました。

 

根本海岸》の記事には『屏風岩一帯は、明治の文豪、菊池幽芳(きくちゆうほう)の小説「己が罪(おのがつみ)」の重要な舞台(波が打ち寄せる「甲岩」として登場)。明治32年~明治33年に大阪毎日新聞に連載された小説で、当時の屏風岩は海中にあり、現在のようになったのは関東大震災での隆起後です(数メートル隆起しています)』と記されており、己が罪の文学碑の画像も掲載されています。根本海岸には、菊池幽芳の文学碑も置かれていました。菊池幽芳についても追っていくことにしました。菊池幽芳の経歴はwikiに記載されています。

 

『菊池幽芳(1870-1947)は、常陸国水戸長者町(現在の茨城県水戸市)出身の小説家である。本名は菊池清。大阪毎日新聞社取締役を歴任した。[人物・来歴]1888年、茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業、同県北相馬郡取手(現在の同県取手市)の取手高等小学校(現在の取手市立取手小学校)の教師となる。21歳を迎える1891年に小学校を退職、大阪毎日新聞社に入社する。同年、宇田川文海、丸岡九華らと大阪文藝会を興し、文芸雑誌「大阪文藝」を創刊する。翌1892年、「大阪文藝」誌上に、小説「鴬宿梅」を発表してデビューする。

 

1897年、同社の文芸部主任に就任する。自らの勤務先である「大阪毎日新聞」に、1899-1900年に「己が罪」を連載して、名声を得る。1903年には同紙に「乳姉妹」を連載した。「家庭小説」というジャンルを確立、第一人者となる。社会部長、学芸部長、副主幹を歴任、1924年には、同社の取締役に就任した。1926年には同職を辞職、相談役に就任した。1947721日、脳溢血のため兵庫県武庫郡本山村(現在の同県神戸市東灘区)の自宅で死去した。満76歳没』。wikiには「己が罪」の概要が掲載されています。

 

女を誑(たぶら)かし弄(もてあそ)ぶのをなんとも思わない男などが絡む恋愛小説で、後に子爵夫人となる女性主人公の薄幸の人生を描いています。恋愛、性、妊娠、結婚、自殺などのドロドロとした人間ドラマになっている感じです。恋愛系の憎愛物語は、どうしても朝鮮半島系の粘着質のヘビを連想します。菊池幽芳の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。また、菊池幽芳の小説「己が罪(おのがつみ)」の重要舞台となる根本海岸に置かれた文学碑に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。(つづく)