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聖隷三方原病院を運営する母体は「社会福祉法人聖隷福祉事業団」です。聖隷福祉事業団の情報はwikiに記載されています。『社会福祉法人聖隷福祉事業団は、病院、介護施設などを運営する社会福祉法人である。[沿革]結核を患った青年のために、長谷川保をはじめとする数人のキリスト教青年らが19305月、病室を建設したことが始まりである。以後、51日が創立記念日となっている。19391224日には資金難から事業継続を断念するが、翌日(1225)には昭和天皇からの下賜金5,000円を受け復活。

 

以後事業を拡大し続け、現在に至る。[事業・事業内容]・医療保健事業 - 総合病院・健康診断センター ・福祉サービス事業 - 介護老人保健施設・介護老人福祉施設・軽費老人ホーム・身体障害者療護施設・救護施設・保育園・訪問介護ステーション・その他在宅サービス事業 ・高齢者公益事業 - 有料老人ホーム・ケア付高齢者住宅 ・収益事業 - 貸事務所[事業所]・千葉県 - 佐倉市・松戸市・浦安市 ・東京都 - 八王子市 ・神奈川県 - 横浜市・横須賀市・三浦市 ・静岡県 - 浜松市・森町・磐田市 ・奈良県 - 北葛城郡 

 

・兵庫県 - 神戸市・宝塚市・淡路市 ・愛媛県 - 松山市 ・鹿児島県 - 奄美市・大島郡 ・沖縄県 - 中頭郡 以上18県に、162の施設を設置している。(20213月現在) [主な施設]主な直営施設 総合病院 聖隷三方原病院 総合病院 聖隷浜松病院 総合病院 聖隷横浜病院(国立横浜東病院を継承) 総合病院 聖隷佐倉市民病院(国立佐倉病院を継承) 総合病院 聖隷淡路病院(国立明石病院岩屋分院を継承) 浜松市リハビリテーション病院(指定管理者受託施設) 袋井市立聖隷袋井市民病院(指定管理者受託施設)』。

 

聖隷福祉事業団は、193912月に資金難から事業継続を断念しますが、翌日には昭和天皇からの御下賜金を受けて復活しています。天皇の御下賜金の裏には松利権があることが分かっています。《福祉施設のワークから示唆される日本に構築された命を金に換える暗黒の仕組》にありますが、御下賜金(ごかしきん)とは、毎年、天皇誕生日に際し、天皇から優良な民間社会福祉事業施設・団体に対して提供される金一封です。福祉施設への松取りの栄誉・褒美だと感じています。

 

表で慈善事業と見せて裏で人命を犠牲にして金儲けを行うエゴの闇の構図が作られてきました。社会福祉法人は、支配層の重要な松利権ネットワークと捉えています。《社会福祉法人の現況報告書等の集約結果(2021年度版)》によると、所轄庁に現況報告書等(現況報告書、計算書類及び社会福祉充実計画)の届出を行った社会福祉法人の数は20,655法人です。社会福祉法人による広範な松利権網が形成されていることが分かります。《社会福祉法人ランキング》には日本の社会福祉法人の規模ランキングが掲載されています。

 

1位は恩賜財団済生会(東京都港区・事業収入6993億円)で、2位が聖隷福祉事業団(静岡県浜松市・事業収入1211億円)となっています。明治天皇の錦の御旗を掲げて設立された済生会が断トツの日本最大の社会福祉法人ですが、それに次ぐのが聖隷福祉事業団なのです。聖隷福祉事業団の設立者は、長谷川保(はせがわたもつ)です。経歴はwikiに記載されています。『長谷川保(1903-1994)は、日本の福祉事業家、教育者、政治家。衆議院議員(7)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。

 

[概要]福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ。[来歴・生い立ち]1903年、静岡県敷知郡浜松町(現・静岡県浜松市)にて生まれた。浜松市立商業学校(現・静岡県立浜松商業高等学校)を卒業後、上京し、日本力行会海外学校に入学した。

 

当初はブラジルに渡ってコーヒー農場を経営したいと考えていたが、キリスト教に触れるなどさまざまな経験を経て、日本に留まることを決意する。また、1928年には、東京神学社にてジャン・カルヴァンについて学んでいる。[福祉事業家として]キリスト教徒であった長谷川は、1930年浜松市にひとりの結核患者のための病舎を建てた。のちにこの病舎はベテルホームと名づけられる。長谷川らの活動に対しては、多くの献金や寄附が集まるなど、賛同する者も多かった。しかし、結核に対する忌避感から周辺住民らの反対運動も根強く、医療施設の経営は困窮していた。

 

そのような状況の中、昭和天皇より特別御下賜金が与えられ、経営危機を脱した。[病院の開設、高齢者福祉]1942年、聖隷保養農園が財団法人として認可され、常務理事に就任した。聖隷保養農園付属病院開設(聖隷三方原病院の前身)1952年、聖隷保養農園は社会福祉法人として聖隷保養園に改組され、理事長に就任した。1961年、日本で初めての特別養護老人ホーム「浜松十字の園」を開設した。聖隷保養園は1973年に聖隷福祉事業団となるが、以降も引き続き理事長を務め、1980年に退任し会長に就任した。

 

1982年、日本で初めてがん末期患者などのための「ホスピス(緩和ケア病棟)」を開設など病院・福祉施設の拡充につとめる一方、各種学校遠州キリスト学園を始めとする各種医療関係学校を経営し、福祉・医療教育にも力を注ぎ、日本で最大級の社会福祉法人である聖隷福祉事業団をはじめとする聖隷グループの礎を築く』。聖隷保養農園理事長(1942-1952)を務めた渡邊兼四郎について、公式サイトには『べテルホーム時代から無償で貧しい結核患者を診察し、薬を提供して療養所の医療を援助しました。キリスト者であった草夫人の力も大きいものでした。

 

後に聖隷保養農園附属内科医院の院長、聖隷保養農園理事長を務め、深く聖隷と関わりました』と記されています。聖隷福祉事業団の設立者・長谷川保と元聖隷保養農園理事長・渡邊兼四郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ。反社」「マザーテレサ並みの汚さがある」と伝えられました。聖隷福祉事業団の現理事長・青木善治本部所在地(静岡県浜松市中区元城町218-26)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。金春アヌンナキはエゴの闇の役割であり、支配層のエゴの闇の仕組が構築されてきました。(つづく)