
日本モンゴル協会の元理事長/会長の春日行雄(元蒙古軍軍医・1921年-2011年)の経歴はサイト情報に記載されています。『1997年8月、首都ウランバートル郊外の草原に、孤児のための「テムジン友塾」と名付けた施設を私財を投じて開設した。旧制大社中学を卒業後の1939年、18歳でモンゴルに渡った。蒙古軍の軍医候補生としてハルビンの旧満州国陸軍軍医学校に学び卒業。ウランバートルで2年間、抑留生活を送った。帰国後は松江市保健所長を務めたほか大和紡績、日本郵船などで医師として勤務。
1964年に社団法人・日本モンゴル協会の設立に携わり、1997年4月から5年間、会長を務めた。同協会の吉田順一会長(早稲田大学名誉教授)は、「両国の友好親善を考える上で最も重要な人物と思う。行動力があり、島根弁独特の味わいのある語り口で、後援会を通じファンも多かった」と振り返った』。元理事長/会長の春日行雄の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。日本モンゴル協会の現役員もワーク対象に選びました。名誉会長・吉田順(早稲田大学名誉教授)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。
理事長・窪田新一(笹川平和財団アドバイザー・元中国内モンゴル大学客員教授)、常任理事・二木博史(編集委員長・東京外国語大学名誉教授)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」「工作員」と伝えられました。日本モンゴル協会は、日本の支配層によるモンゴルの松利権に関わる工作組織だと捉えています。日本モンゴル協会の設立者で初代会長の松崎陽(元蒙古軍軍医顧問)のwikiには『1935年(昭和10年)末、関東軍による「内蒙古政務委員会」の傀儡化工作を基礎に、内蒙古を中国本土から切り離して独立させ、新疆・外蒙古にまで手を広げようと狙う。
1936年(昭和11年)の末に特務機関長田中隆吉中佐のバックアップの下、徳王を首班とする内蒙古軍政府成立に尽力』と記されており、「特務機関長田中隆吉中佐」を追いました。田中隆吉は、陸軍軍人で陸軍中野学校長も歴任した人物で、満蒙独立工作に深く関与していました。田中隆吉の経歴はwikiに記載されています。『田中隆吉(1893年-1972年)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。
太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。[川島芳子との関係]1930年(昭和5年)10月、田中は陸軍中佐で上海の公使館付武官として赴任した。そこで川島芳子と知り合い、ほどなく男女の関係になる。そして川島の語学力や明晰な頭脳・行動力を利用し、謀略工作の世界に引き込んだ』。川島芳子は、男装工作員や東洋のマタハリとも称され、映画の主人公になっている偽装死説も流れる清朝皇族の王女です。
wikiの経歴には『川島芳子(1906年-1948年)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら
けんし)。8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の媒酌で蒙古族のカンジュルジャブと結婚式をあげた。カンジュルジャブは、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していた。
結婚生活は長くは続かず、3年ほどで離婚した。その後、芳子は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが、実際に諜報工作を行っていたのかなど、その実態は謎に包まれている。戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映してその後も生存説が流布された』と記されています。川島芳子は、工作活動のために偽装結婚をしていたと感じます。
清朝皇族・粛親王の王女を幼女にして川島芳子としたのが川島浪速(かわしまなにわ)です。この川島浪速が満蒙独立工作の中心人物だったと見ています。川島浪速の経歴はwikiに記載されています。『川島浪速(1866年-1949年)は、日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。[来歴]信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士川島良顕と、その妻・栄子の長男として生まれる。出生時には父親が長州征討のため大坂に出陣中であったため、「浪速」と命名された。明治8年(1875年)に一家で東京に移住。その後、東京外国語学校に入学し中国語を学ぶ。
明治19年(1886年)に同校を退学、同年に上海に渡航し、中国各地を見聞する。明治22年(1889年)、病を得て帰国。明治27年(1894年)、日清戦争が勃発すると、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦する。明治29年(1896年)、台湾総督・乃木希典の知遇を得て、台湾総督府官吏となる。明治33年(1900年)の義和団の乱では再び陸軍通訳官として派遣軍に加わり、後には軍政事務官を兼任し、警察業務に携わる。翌・明治34年(1901年)に行政権が清朝に返還されると、警察業務を評価された川島は清朝に雇用され北京警務学堂の学長に就任し、警察官の養成に尽力した。
この時東京外語の同窓生だった二葉亭四迷が北京に来て、警務学堂の提調の職に就いている。清朝に雇用された外国人のなかでもその給料はトップクラスであり、一介の陸軍通訳官としては破格の待遇であった』。川島浪速の過去世を持つと感じる知人が思い浮かびます。田中隆吉、川島芳子、川島浪速の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「与えられた仕事をした」「工作員。二重死」「工作員」と伝えられました。3人は皆、日本陸軍の八咫烏の配下での工作員だったと感じます。
川島浪速には親交のある清朝皇族や蒙古王も存在していました。また、モンゴルの女子教育のために日本から派遣された女性教師もいました。愛新覚羅善耆(1866年-1922年・粛親王善耆・川島浪速と義兄弟の契りを結ぶ・幼女を養子に出して川島芳子となる)、グンサンノルブ(1872年-1931年・粛親王の妹婿でモンゴルの王族)、下田歌子(1854年-1936年・モンゴル毓正女学堂の建設に繋がった女子教育の先覚者)、河原操子(1875年-1945年・モンゴル毓正女学堂に赴任された日本人教師)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「金春アヌンナキ」「乗っ取った偽物」「女スパイ」「工作員」と伝えられました。
モンゴルの現在の大統領と首相もワーク対象に選びました。モンゴルの大統領のウフナーギーン・フレルスフ(1968年-・26歳の時にJICAの青年交流事業で来日)と首相のロブサンナムスライ・オユーンエルデネ(1980年-・安倍晋三元首相の国葬儀にモンゴル代表として参列)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「金春アヌンナキ」と伝えられました。金春アヌンナキはエゴの闇の役割の宇宙人であり、モンゴルのトップは、支配層の裏金である松利権というエゴの闇で覆われているようです。
モンゴルは、東アジア北部にある共和制国家で、首都はウランバートルです。東と南の二方向を中華人民共和国、北をロシアとそれぞれ接する内陸国です。モンゴル高原のうち、外蒙古と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とし、国連加盟国の中で人口密度が最も低い国でもあります。モンゴルは、自然豊かな水の場所のタルタリアでした。タルタリアの光を封印するために、日本の支配層が戦争を起点にして松工作を成しエゴの闇で覆ってきたのです。支配層の松利権工作が終わり、モンゴルの自然と人が本来の光の姿に戻ることを願っています。(おわり)