日本の相撲界とモンゴルの闇については、元横綱・白鵬の弟子の北青鵬(ほくせいほう)が過激な暴力問題で事実上追放されたことを中心に《モンゴルの闇が浮上する真相不明な引退劇の逸ノ城と弟弟子への過激な暴力で相撲界を追放された北青鵬》などシリーズ記事で書いてきました。もう1つ大相撲で気になっていたのが、逸ノ城の真相不明な引退劇です。逸ノ城が所属していた湊部屋の親方や女将と不仲な関係だったとされていますが、真実は隠されたままだと感じていました。今回、逸ノ城の引退劇の裏に何があったのかを追究していきました。
逸ノ城が不可解な引退をした理由の1つが、令和6年三月場所千秋楽の一番にあると感じました。その取組は、優勝が懸かった一番でした。前日の取組で靭帯を伸ばして足を痛めたという新入幕の尊富士(たけるふじ・12勝2敗・前頭十七枚目)VS豪ノ山(10勝4敗・前頭六枚目)です。尊富士は、前日の取組後に足を痛めて車椅子で退場した状態でした。優勝が懸かった千秋楽の一番は休場で不戦敗になるのではないかとの憶測も出たほどです。最終的には、尊富士が「出たい」と親方に申し出て、無理を覚悟で千秋楽に出場しました。
対戦相手の豪ノ山に勝って優勝を決めました。尊富士が新入幕優勝を決めた一番の動画はYouTube《大相撲 尊富士ー豪ノ山<令和6年三月場所・千秋楽>SUMO》にあります。個人的には、すぐに「八百長だ」と直感しました。理由の1つが、相手の立ち合いが非常に甘かったのです。尊富士に簡単に右を差されており、真剣勝負ではなかったと感じました。けがをした身で無理をしながら勝って優勝するという「悲劇の美談を仕立てたのだな」と思います。こうした嘘の工作相撲をしている限り、日本相撲協会や放送するNHKには未来はないと思います。
NHKが相撲協会に支払っている放映権料は、年25~30億円と言われています。逸ノ城が不可解な引退に追い込まれた原因の1つが、真剣勝負とみせかけた八百長相撲の存在だと捉えています。ネットで尊富士の優勝の一番の情報を集めてみる、同じ感想を持っている人がいました。《賢太@ponta19810417》のXには、『#相撲 には八百長があると貴闘力が証言してきた。 #尊富士 が強行出場優勝は、裏でプロレスが決まったということ。
相撲は興行だから、八百長は有り。八百長がなくなったから、怪我しやすいは嘘。相撲は怪我します。
いつか、あの優勝は八百長って、口を割る人が出る。相撲はスポーツじゃない!』と記されています。3/25(月)の日刊ゲンダイDIGITALの記事《手放しでは喜べない? 尊富士の快挙「110年ぶり新入幕V」が美談仕立てになる危うさ》にはタイトルに美談を使ってほのめかしています。『新鋭の美談さながらの初優勝で盛り上がる大相撲だが、「靭帯が伸びていた」尊富士の強行出場は決して褒められたものではなく、土俵のレベル低下も事実。新記録だ何だと手放しで喜ぶのはあまりに危険である』と伝えています。大相撲の歴史を調べるとwikiに書かれています。
『江戸時代 興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかった。
そのため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。
この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである』。大相撲の源流は、寺社が建立や移築のための資金を集める興行の勧進相撲なのです。歌舞伎などの芝居と同じく脚本がある相撲であり、簡単に言えばプロレスです。真剣勝負と見せた嘘の勝負だからこそ「八百長」と呼ばれます。人集め金集めの興行相撲に徹すればいいと感じます。
真実にみせかけた嘘をつき続けることは観客や視聴者を愚弄することになります。逸ノ城は、多数のモンゴル人力士の中でも、唯一の遊牧民出身であり、純粋さを持っていたと感じます。モンゴル人力士の集団は、「モンゴル互助会」というモンゴル人力士同志で、星のやり取りを行う八百長が存在していたという噂もあります。それ故に、真剣勝負と八百長、真実と嘘の間の葛藤も生まれていたと想像します。「モンゴル互助会」に関連する事件が2017年10月25日に起きた「日馬富士事件(日馬富士による貴ノ岩への暴行事件)です。
当時、白鵬を頂点とするモンゴル人力士の食事会に、逸ノ城は参加していませんでした。逸ノ城は他のモンゴル人力士と同じではなく、むしろ異質の存在だったと感じます。決して裕福ではない遊牧民の家族に自分が金を稼いで楽をしてもらいたいという思いもあったでしょう。大相撲の世界では大きな金が動きます。人間は一度、大きな金を掴むと二度とそれを手放すことが出来なくなります。本来は自然を相手に生活していた逸ノ城ですが、大相撲の世界に入り、人間のエゴと金の闇に染まってしまった苦しい姿が浮かんできます。(つづく)