
日本クルド文化協会の事務局長・チョラック・ワッカスのプロフィールにあった「東京外国語大学クルド語講師」の「東京外国語大学」が気になり、追跡することにしました。《東洋のマタハリの川島芳子が暗躍した満蒙独立工作とタルタリアのモンゴルを封印した支配層・八咫烏》にありますが、日本モンゴル協会の理事長と常務理事も東京外国語大学の出身者でした。東京外国語大学は、設立時から支配層の工作が絡んでいる可能性を感じます。東京外国語大学の情報はwikiに記載されています。
『東京外国語大学は、東京都府中市朝日町三丁目11番1号に本部を置く日本の国立大学。1873年創立、1949年大学設置。名称は「外国語大学」だが、3学部1研究科からなる総合大学である。[概観・大学全体]旧制東京外国語学校を前身とする大学である。3学部3学科からなる総合大学で、外国語学部や国際教養学部などに相当する言語文化学部、歴史学部や国際関係学部などに相当する国際社会学部、国際日本学部がある。[沿革・略歴]東京外国語大学の前身教育機関である旧制東京外国語学校は一度廃校を経て復活するなど複雑な経緯をたどって設立された。
そのため、3つの設立年代があり、東京外国語大学はそれぞれを「建学」・「創立」・「独立」と称している。1896年、帝国議会に「外國語學校設立ニ関スル建議」が提出されると、翌年に高等商業学校に附属外國語學校が創立され、1899年に東京外國語學校として分離独立を果たした。現在の学則により創立年月日とされているのは1897年(明治30年)4月27日であり、創立記念日も4月27日である。[年表]1811年(文化8年)- 徳川幕府は高橋景保の建議により、天文方に蘭書翻訳局蛮書和解御用を附設する』。
東京外国語大学の実質的な源流となる建議者の高橋景保(たかはしかげやす)、(旧)東京外国語学校長初代の伴正順、東京外国語学校長初代の神田乃武(かんだないぶ)と現学長の林佳世子をワーク対象に選びました。建議者の高橋景保の経歴はwikiによると『高橋景保(1785年-
1829年)は、江戸時代後期の天文学者。天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑は弟。文化元年(1804年)に父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。文化7年(1810年)、「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。
一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに「大日本沿海輿地全図」を完成させる』と記されています。日本地図を最初に作成したのは伊能忠敬とされていますが、実際には、高橋景保のようです。東京外国語大学の建議者・高橋景保(1785年-1825年)、(旧)東京外国語学校長初代・伴正順(1843年-1908年)、東京外国語学校長初代・神田乃武(1857年-1923年)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「ロスチャ工作員」「フリーメイソン」「ロスチャ工作員」と伝えられました。
ロスチャイルドは八咫烏鶴派に通じます。東京外国語大学の現学長・林佳世子(1958年-)、本部所在地(東京都府中市朝日町3丁目11-1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」「いいです」と伝えられました。東京外国語大学は、歴史から見ても支配層・八咫烏にとって、外国語を使える工作員の養成学校だと捉えています。次に、埼玉県川口市のクルド人情報で注目した場所の2箇所を追いました。1つ目は、クルド人の解体業者が集まる「川口市赤芝新田」です。2023.10.08の週刊現代の記事には『日本に住むクルド人の多くは、解体業を主な仕事としている。
埼玉県川口市内には解体業を専門とした会社が多数設立され、その多くがクルド人による経営という。なぜ、解体業にクルド人が集まるのか。外環道に近い一帯(赤芝新田)には、解体業者の集まったエリアがある』と記されています。記事は、川口市赤芝新田のクルド人の解体業者の「ヤードと呼ばれる資材置き場」の画像が掲載されていますが、金属製の塀で囲んで内部が見えない様にされています。グーグルマップで川口市赤芝新田の場所を詳細に見ていきました。赤芝新田の地は、東側に芝川、西側に綾瀬川が流れる間にあります。
また、芝川と綾瀬川の外側には荒川と中川が流れています。川口市赤芝新田の地は川が流れる水の場所です。グーグルマップの川口市赤芝新田の区域の南端に「赤山陣屋跡」「赤山城跡」の表示があります。「赤芝新田」「赤山陣屋跡」「赤山城跡」には「赤」がつきます。「赤」は「エゴの闇」を意味しています。赤芝新田の水の場所の光をエゴの闇で封印していることを示唆しています。一般的に城は大名などの城主が松を摂取する場所です。さらに「赤山城跡」を調べました。赤山城の情報はwikiに記載されています。『赤山城は、埼玉県川口市にあった城。赤山陣屋とも呼ばれる。埼玉県指定文化財(旧跡)。
[概要]江戸時代初期の1629年(寛永6年)に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城した。現在は堀跡などが残り、一部が公園として整備されている。本丸と出丸の間には東京外環自動車道が建設されている。また、城址の南端あたりには川口パーキングエリアが建設されている。また、赤山城から3方向に赤山街道が整備され、現在も道路として残る路線も多い。越谷方面に向かう越谷道、与野方面に向かう大宮道、竹ノ塚方面に向かう千住道がある。赤山陣屋の模型が、赤山歴史自然公園内の資料館に展示されている』。
赤山城の築城主の伊奈忠治の経歴はwikiにあります。『伊奈忠治は、江戸時代初期の代官頭。[略歴]武蔵小室藩主・伊奈忠次の次男。通称は半十郎。勘定方を勤めていたが、父の没後、跡を継いでいた兄・忠政が元和4年(1618年)に34歳で没した。しかし嫡男・忠勝が8歳の幼少であったため、家督は忠勝が、関東代官職は27歳の忠治が継ぐこととなった。関東代官となる前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に既に七千石で赤山城を拝領していたため、兄の配下だった代官の多くが忠治の家臣となったという。
忠治は父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削に携わった。江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当した。なお、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つくばみらい市北山)の北東、つくばみらい市福岡にある』。赤山城の築城主・伊奈忠治は、治水工事、新田開発などの川の工事を担当しており、裏で松取りを行っていたと感じます。
《千葉県旭市周辺にあった広大な湖・椿海の干拓事業に隠された闇》などの記事にありますが、江戸時代の河川や湖沼の治水工事・新田開発などの事業の裏には、労働者を犠牲にした松取りがあったと推測しています。工事を隠れ蓑にした支配層の松利権という裏の金儲けであり、真実を隠蔽されてきました。この手法が河川や湖沼の水の光を闇で封印する闇の仕組になったのです。赤山城の築城主・伊奈忠治の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「トカゲ。レプ」と伝えられました。赤山城跡の所在地(埼玉県川口市赤山字陣屋敷)に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。
「死んだ人が沢山いる」と伝えられました。やはり松取りが行われ、多くの亡くなった人たちの魂が留まっているようでした。亡くなった人々の魂が上がるように光の柱を立てると「いいです」と伝えられました。クルド人の解体業者が集中する赤芝新田の地域全体に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。赤芝新田の地は、赤山城を中心に江戸時代から松取りの闇が置かれており、闇が闇を呼ぶ形で松取りの現場作業員であるクルド人の解体業者が集まっていたのです。光を降ろしたことでエネルギーが変わり、今後、赤芝新田の地に何か変化が起きてくると感じます。(つづく)