2024年3月31日(日)、右肩の甲骨付近に軽い痛身を覚えました。ワークを場所を教えるサインであり、感覚的には埼玉県だと感じました。グーグルマップで埼玉県を調べていくと「川越市」に目が留まりました。川越市は埼玉医科大学関連のワークで記憶がありました。《皇族やダライラマが訪れた毛呂病院と秩父や入間川の流れる土地を封じる埼玉医科大学付属の3つの病院》でワークを行った埼玉医科大学病院付属の病院の1つである「埼玉医科大学総合医療センター」が川越市に置かれています。
「川越市」は字にある通り、川が越えるという水の場所です。水のある光の地である故に古くから松取りの闇が置かれてきました。埼玉県川越市についての調査とワークを行っていきました。川越市の情報はwikiに記載されています。『川越市は、埼玉県の南西部に位置する市。中核市、業務核都市、保健所政令市に指定されている。1922年(大正11年)12月1日市制施行。人口は約35万人と、埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぐ第3位の人口を有する。[概要・歴史]江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸(こえど)」の別名を持つ。
城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、文化財の数では関東地方で神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ。歴史まちづくり法により、国から「歴史都市」に認定されている(埼玉県内唯一の認定)。戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約732万人もの観光客が訪れる観光都市である。武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が市内で合流する。地理的な要衝で平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。
室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となった。戦国時代には関東平野の覇権を決する河越夜戦の舞台となった。河越夜戦は「日本三大夜戦」とされる。江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。川越城を擁する川越藩は江戸幕府の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市である。
川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注いだ。「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じ、玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修を行った。行政手腕の秀でた柳沢吉保は、川越に召抱えていた荻生徂徠の建議を入れ、筆頭家老の曽根権太夫に命じ、三富新田の開拓などを行った。領内や秩父など近郊からの物資の供給地として「江戸の台所」と呼ばれ繁栄した。また幕末、川越藩領であった上野国前橋で生糸業を興し、その輸出で川越商人は財を成した。
埼玉県下随一の城下町(川越藩の石高は武蔵国で最大、関東でも水戸藩に次ぐ)であったので、廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。旧川越藩御用商人衆には横田五郎兵衛、山崎豊、黒須喜兵衛など豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行(川越銀行や川越商業銀行)の設立や商工会議所・医師会の発足なども埼玉県内で最初である。後に川越市初代市長となる綾部利右衛門ら川越商人の強い力で、埼玉県で最初に火力発電所や水力発電所を設け、埼玉県下で最初に電灯が燈った町でもある』。
川越市が「戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っている」というのは、意外でした。総務省公式サイトにも『結論から言えば、川越市は空襲を受けなかった』とあります。空襲を受けなかったのは、支配層の裏金が集まる重要拠点だったからだと感じます。「川越商人」という言葉が全てを物語っていますが、河川や上水があり、治水工事や新田開発、廻船業、生糸業などの松利権が絡む産業が発展したからだと捉えています。戦時中に殆ど空爆を受けなかった川越市は、大きな松利権の場所であり、松利権を握る支配層工作員の多くが川越の地に存在していたと推測します。
生糸業の裏の松利権の中核となる片倉財閥については、過去のヒプノセラピーでも伝えられています。《北海道 天皇、政府、財閥、反社が裏で結託し人命を犠牲に金儲けをしてきた日本の深い闇 ~巡礼の旅(618)》には、『諏訪に拠点を持つ片倉財閥の繊維産業の裏で昭和天皇、政府、反社が金儲けをして来た闇の構図が存在した。裏で国民の命を金に換える隠された闇がある。北海道開拓は、美談の裏に人々を犠牲にした金儲けの闇が生まれ、麻や北海道の光が封印された」と記されています。支配層は、表のビジネスを隠れ蓑にして、裏の金儲けである松利権を拡大させてきました。
川越市の支配層の歴史的な象徴として、まずは、川越商人で川越市初代市長となった「綾部利右衛門(あやべりうえもん)」をワークの対象に選びました。綾部利右衛門の情報はwikiに記載されています。『十代目綾部利右衛門(1860年-1932年)は、実業家、初代川越市長。通称・峯太郎。[生涯]綾部家は元禄13年(1700年)以来、武蔵国川越(埼玉県川越市)喜多町で、屋号を「麻利」と称し塩・油・肥料を業としてきた豪商である。川越藩御用達として活躍していた家系であり、代々が綾部利右衛門を踏襲してきた。
その十代目として万延元年(1860年)に生誕したのが峯太郎である。宝暦14年(1764年)の織部家の記録で、織部家は新河岸川の川越五河岸に出店し、舟運で江戸との物資の交易にあたっていた巨商であったことが分かる。また先代(九代)の当主は新河岸川の運河の開削に巨費を投じたひとりで、川越中心部に仙波河岸が完成すると回漕店を経営した。こうした経緯から歴代当主は江戸の文化を吸収し、全国の経済活動に通暁し膨大な文化的資産(蔵書)を所有していた。第十代の利右衛門もそうした文化的土壌から、川越の経済的発展や文化振興に貢献した。
明治11年(1878年)、横田五郎兵衛、黒須喜兵衛、西村半右衛門、山崎豊ら川越藩御用商人衆の豪商とともに埼玉県唯一の国立銀行である第八十五国立銀行(埼玉銀行 - 埼玉りそな銀行の前身)の創設に参画、明治31年(1898年)、国立銀行営業満期前特別処分法に基づき株式銀行・第八十五銀行となると後に頭取として業務を統括した。また、川越貯蓄銀行や飯能銀行創立に携わった。明治33年(1900年)、国が商業会議所条例を施行すると、埼玉県初の商工会議所である川越商業会議所(現在の川越商工会議所)を設立、明治36年(1903年)から約30年間、その会頭の職に就いた。
明治35年(1902年)には川越馬車鉄道を設立、翌年には埼玉県内で最初に電力供給事業に進出し川越電灯を設立、それらの社長に就任した』。川越市の初代市長・綾部利右衛門は30年間も商工会議所会頭の地位に就いており、松利権の大きな力を有していたことが窺えます。川越市の初代市長・綾部利右衛門(1860年-1932年)と名誉市民・伊藤泰吉(1899年-1965年・朝鮮総督府専売局長や朝鮮総督府逓信局長を歴任。最初の公選市長で川越市長を連続6期)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」「宇宙人。アーク系」と伝えられました。(つづく)