320px-Shimoda_view_展望台からの下田の眺め


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6(月・祝)、伊豆の老人ホームに入所している高齢の父親が体調不良で入院することになったと妹から連絡が入りました。父親に対しては、いつも祈りのワークで光を降ろしているので、最悪の状況にはならないだとうと楽観視していました。これまでの経験から父親の不調や入院は自分が何か気づいてワークを行うためのサインでもありました。過去から父親は自分の身を挺して私にメッセージやサインを送ってきていました。それは父親のカルマの解消でもあると感じていました。

 

私が魂を共有する江川英龍の代官の時に、父親は息子として裏の仕事をしていました。江戸時代、徳川家の裏の仕事を父子で担っていたのです。今回の父親の入院は何を意味しているのかを思案すると「下田」が気になりました。三島市から天城湯ヶ島までは一通り調査とワークを行って、12本の記事を書いてきました。最初の記事《静岡 シリウスからのメッセージと三島市立公園「楽寿園」のワーク(1) ~巡礼の旅(738)~》では、昨年111日に巡礼の旅で訪れた三島市の楽寿園や浅間神社のワークについて記しています。

 

また、直近の記事の《静岡 井上靖が生まれた医家・井上家のある天城湯ヶ島と山岡鉄舟が名づけた落合楼 ~巡礼の旅(749)~》では、井上靖を追究し関連ワークを行ってきました。伊豆半島で一番重要な場所が「天城山」です。火と水が生まれる光の地である天城山は、江戸時代から天領(幕府直轄地)であり、松取りの闇が置かれて封じられてきました。古くは金山や炭焼きを隠れ蓑にした松取り工作が行われてきました。そこから現在の観光産業による松利権工作に繋がってきています。

 

「伊豆の踊子」の作者・川端康成などの文豪たちの滞在地として天城湯ヶ島温泉の老舗旅館が有名になり、多くの観光客が訪れています。支配層の迎賓館「仁風林」としての役割を兼ねて老舗旅館を置くことで、温泉場という本来は光の場所を闇にして封印してきたことが分かっています。これまで、天城山を封印する闇の仕組について調査とワークを行い、三嶋大社の鳥居前町として栄えてきた三島市から天城山までは、ほぼ終わっていました。そうすると残りは「下田」ということになります。

 

伊豆半島の中央を縦断する下田街道は物資の輸送や人の移動においても重要でした。三島から下田に抜ける下田街道で一番難所とされるのが「天城峠」でした。父親の体調不良による入院の他に「下田」のワードが気になっていたニュースがあります。森喜朗元首相が裏金・キックバック問題について黒幕容疑を掛けられたことに対しての反論として、不可解な「下田」のワードを出していました。文春オンラインの記事を編集した20240426日の時事ドットコムニュースの記事で森元首相の言動が伝えられています。

 

『ノルマ超過分のキックバックは、安倍晋三元首相が中止するよう指示したにもかかわらず、202285日に下村博文氏や世耕弘成氏、塩谷立氏、西村康稔氏ら派閥幹部が会合を開き、復活が決まったとされる。キックバックが復活したことについて、森元首相が関与していたのではないかという疑惑には、次のように語った。「キックバックを復活させるかどうか議論したとされる会合の日、私は東京オリンピックの後始末のために静岡県の下田へ行っていました。会合にも出ていませんし、話し合いがあったことすら知らなかった。

 

どんな経緯で再開されたか、本当にわかりません。下村君一人だけが、私がそこに関係しているかのように言っているわけです。あの会合に参加している他の誰も、私が関与したなんて言っていません』。森喜朗元首相は、他の政治家と同様に替え玉になっています。替え玉の森元首相が「キックバックを復活させるかどうか議論したとされる会合の日、私は東京オリンピックの後始末のために静岡県の下田へ行っていました」と意図的に「下田」のワードを出していることは、ヒントであり、静岡県下田市に何か隠されたものがあると感じました。

 

森元首相は、自分の裏金・キックバック再開の黒幕疑惑に対して反論しているので、「東京オリンピックの後始末のために静岡県の下田へ行っていました」という言葉の裏には、当然のことながら東京オリンピックの「裏金」に関係する後処理(後始末)と見るのが自然だと思います。となると、東京オリンピックの裏金の後処理を行う場所が「下田」ということになります。「下田」が支配層の裏金を処理する場所を暗示しているのです。支配層の裏金とは、表に出せない松・薬・人身売買などの裏の金を意味します。

 

「下田」で重要の場所の1つが「下田港」と感じます。wikiには、『下田港は、江戸時代から江戸に向かう船舶の寄港地として繁栄した。毎年、3000隻の千石船の入港があった』と記されています。千石船とは、千石の米を積む弁才船の俗称であり、北前船・菱垣廻船・樽廻船も弁才船(千石船)です。《昔の北前船の寄港地として栄えた輪島市と旧加賀藩の隠された大きな松利権の闇が潜む観光関連産業》にありますが、千石船は、実質的に支配層の松の運搬を担う船であり、表裏の金儲けのための運搬船と捉えています。

 

江戸時代に下田港には、毎年、3000隻の千石船の入港したことから、下田は支配層の裏金が集まる場所だったことが窺えます。また、下田には、米国のペリーとロシアのプチャーチンが来ています。1854年に日米和親条約が締結され、1855年に日露和親条約を締結されています。八咫烏亀派(米国・朝鮮・ロスチャイルド)と八咫烏鶴派(欧州・中国・ロックフェラー)2勢力が集まる場所になっている場所であり、ある意味、2勢力を動かす八咫烏同和派の重要拠点になっていたと捉えています。静岡県下田市の隠された支配層の闇について徹底して追跡することにしました。(つづく)