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下田市のwikiの「名所・旧跡・観光施設」の項目の中に『神子元島灯台 - 明治3年竣工。下田港9km沖合いの神子元島にある、現存する日本最古の洋式灯台。国の史跡』と記されており、「神子元島灯台(みこもとじまとうだい)」を追跡しました。神子元島灯台の情報はwikiに記されています。『神子元島灯台とは、下田港南沖11kmにある神子元島に建つ灯台である。[概要]幕末に、江戸幕府と列強との間で結ばれた改税約書(江戸条約)に基づき建設された、条約灯台と呼ばれる8(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、劔埼、伊王島、佐多岬、潮岬)のうちのひとつ。

 

エジンバラのスティブンソン事務所の灯台標準設計仕様に基づき、リチャード・ヘンリー・ブラントンの指揮、コリン・アレクサンダー・マクヴェインの設計と工事監督により、18693月に工事が始まった。明治政府灯明台掛にとって最初の本格的灯台建設であり、日本人の現場監督と職工は組積造に不慣れで、また請負業者の不正が重なり工事は難航を極めた。下田から切りだされた伊豆石を精緻に積み重ね、目地には日本初の速成セメントが使われている。明治31111(187111)に竣工した。

 

初点灯には三条実美、大久保利通、大隈重信ら明治の元勲とイギリス公使ハリー・パークスが来島し立ち会っている。石造灯台では、日本最古の現役の灯台であり、国際航路標識協会(IALA)が選定した「世界歴史的灯台百選」のひとつで、また日本国政府により史跡に指定されている。等級は第3等群。速成セメントに、経年および波浪による劣化がみられたため、耐震補強を兼ねた工事が1982年と1995年に行われた。炭素繊維などを使って灯台全体を補強した。2007年から2008年にも、電源設備を中心とした改修工事が行われた』。

 

神子元島灯台は、8基の条約灯台の1つでした。《日本の海岸線にある3000超の灯台は松の海路輸送の目的が隠された日本列島を封印する闇の楔となる》には、日本列島の沿岸に置かれた灯台が3000超あり、封印の楔となっていることが記されています。まだ記事にしていませんが、過去のヒプノセラピーでは、主要な灯台の中には、松関連の地下施設がつくられており、子どもなどを集める場所やハイテク技術を使った松処理施設が置かれていることが伝えられています。8基の条約灯台の1つである神子元島灯台にも地下施設があると推測します。

 

グーグルマップの航空写真で神子元島を見ると、自然のものではない人工物と思われる図形や入口のようなものが映っています。人工的な細工が成されて、恐らく潜水艦が海中で直接的に接岸できる拠点となっていると感じます。八咫烏は先進技術を一般大衆に隠して自分たちの裏の金儲けに利用しているのです。神子元島灯台の初点灯時に、三条実美、大久保利通、大隈重信らとイギリス公使ハリー・パークスの支配層の要人が来島し立ち会っていることから可能性は高いと見ています。神子元島灯台に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「怪しい場所」と伝えられました。

 

松の海路輸送の闇が隠された日本の灯台を所管する海上保安庁と航路管制を担う7箇所の海上交通センター》にありますが、灯台を管轄しているのは海上保安庁であり、航路制御を担当しているのが配下の海上交通センターです。それ故に、海上保安庁が、支配層の松の海路輸送を統括管理していると見ています。神子元島灯台を管轄するのは「下田海上保安部」で、上部組織が「第三管区海上保安本部」です。下田海上保安部長・山下雄一郎と第三管区海上保安本部長・宮本伸二に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「羊」「官僚」と伝えられました。

 

条約灯台と呼ばれる観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、劔埼、伊王島、佐多岬、潮岬にある8基の灯台の半分程度について、身体の痛みを通じたサインが来ています。神子元島灯台以外の条約灯台についても、別途、松拠点の闇を解除・統合するために調査とワークを行う予定にしています。下田市のwikiの「歴史」の項目で、注目したのが『1967(昭和42)915日、第1回日米関係民間会議(下田会議)』の一文です。「日米関係民間会議(下田会議)」は初めて聞く名前でした。この「下田会議」は、支配層・八咫烏の同和派の拠点としての下田の核心に繋がる可能性を直感しました。

 

下田会議の情報はwikiに記されています。『下田会議(Shimoda Conference)または日米関係民間会議(Japanese-American Assembly)とは、1967年から1994年まで開催された、日本とアメリカ合衆国の外交政策関係者による非公式の会議である。その後、2011年に「新・下田会議」(New Shimoda Conference)が開催された。[歴史]1967年に開催された第1回会議は、非公式ながら日米の外交政策関係者が対等の立場で話し合う第二次世界大戦後初の会議であり、日本が世界の外交の舞台で再び活躍するためのマイルストーンとみなされた。

 

国際親善日本委員会(日本国際交流センター(JCIE)の前身)とコロンビア大学アメリカン・アッセンブリーが主催し、アメリカからはマイケル・マンスフィールド上院院内総務、エドマンド・マスキー上院議員(後の国務長官)、トム・フォーリー下院議員(後の下院議長)、ドナルド・ラムズフェルド下院議員(後の国防長官)、日本からは自民党の中曽根康弘衆議院議員(後の首相)と民社党の長末栄一衆議院議員(後の民社党中央執行委員長)が出席した。下田会議は1994年まで2年から4年おきに計9回開催され、日米の民間対話を促進するための有効な手段となった。

 

【下田会議】1 1967 914 - 930(静岡県下田市) 2 1969 94 - 97(静岡県下田市) 3 1972 68 - 611(静岡県下田市) 4 1977 91 - 94(静岡県下田市) 5 1981 92 - 94(神奈川県大磯町) 6 1983 91 - 94(バージニア州メアリー) 7 1987 419 - 421(神奈川県大磯町) 8 1990 1115 - 1117(神奈川県大磯町) 9 1994 105 - 108(静岡県淡島)【新・下田会議】下田会議は1994年の第9回を最後に中断した。この会議を復活させるべく、2011222日、東京都で日米の代表約50人が集まり、「新・下田会議」が開催された。

 

これは、日本国際交流センター(JCIE)の設立40周年の記念事業として、JCIEが主催して行われたものである。[主な参加者]・ジム・ウェッブ(上院議員、上院外交委員会東アジア・太平洋地域担当委員長、上院軍事小委員会人事担当委員長) ・ダイアナ・ディゲット(下院議員) ・古川元久(衆議院議員、元内閣官房副長官) ・山本正(日本国際交流センター理事長) ・田中均(日本国際交流センターシニアフェロー、国際戦略研究所研究員、元外務審議官) ・藤崎一郎(在アメリカ合衆国日本大使) ・前原誠司(外務大臣)』。

 

1回下田会議に後の首相の中曽根康弘が出席しているのが目につきます。元首相の中曽根康弘は、元軍人で八咫烏工作員だったと感じます。《中曽根康弘元首相が墓場まで持って隠蔽した日航機墜落事故の真実》にある支配層の松利権が絡むJAL123便墜落事故の真相を隠蔽した人物です。後に再開した新下田会議の出席者には、北朝鮮拉致問題の工作で名を上げた田中均もおり、下田会議は支配層の同和派の工作会議体だったと捉えています。下田会議を主催した「日本国際交流センター(JCIE)」について追っていくことにしました。(つづく)