「宝島夫妻殺害事件」の被害者・宝島龍太郎夫妻が経営していた飲食店があった東京都台東区上野について調べていきました。上野の情報はwikiにあります。『上野は、東京都台東区の町名。また、上野駅を中心とした副都心。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。[概要]広域地名としては浅草とともに上野・浅草副都心を形成する、上野駅を中心とする一帯の地域を指す。上野エリアは、台東区上野・北上野・東上野・上野公園などからなり、日本最初の公園である上野恩賜公園(上野公園)や、デパートや飲食店などが集まる繁華街、喫茶店発祥の地を地域内に持つ。
山手線の繁華街の中でも下町的な雰囲気を残す。上野駅から御徒町駅にかけて、全国的に著名なふアメヤ横丁(通称:アメ横)が位置している。上野公園南側の上野仲町通は歓楽街的な雰囲気をもつ。また上野は戦前から男娼が集まったゲイ・タウンとしても知られる。上野駅は東京でも屈指のターミナル駅であり、かつては北関東や東北地方などの寝台優等列車や新幹線の起点として、東京の「北の玄関口」の機能を果たしていた。上野公園は東京国立博物館や国立西洋美術館、東京都美術館などの博物館や美術館が日本で最も集積した地域である。
また東京芸術大学や東京大学も近くにあるため「文化・芸術・学問」の街としての性格をもつ。他にも上野公園内には日本最古の動物園である上野動物園が位置しており、国内外から多くの観光客を集める。第二次世界大戦後、戦災や外地からの引揚げなどで行き場を失ったホームレスや戦災孤児が多数、駅の地下街や周辺で寝起きするようになった。彼らの置かれた環境は劣悪で、しばしば凍死者が出たほか、発疹チフスなどに流行元になることがあった。人通りの多さから闇市が形成されアメヤ横丁に発展。駅周辺に繁華街が形成された。
また、パチンコが流行し始めると昭和通りを挟んだ向かいにはパチンコ関連企業が集まる「パチンコ村」と呼ばれるエリアが形成。駅周辺には小規模なパチンコ店が多数出店するようになった。また、1980年代には昭和通り沿いにバイク店、バイク用品店が多数出店していた時期があったが、21世紀現在は多数が退店して数店が残るのみとなっている』。上野の西側には、天然の池である「不忍池(しのばずのいけ)があり、上野を含む台東区は、本来は水の場所である光の地でした。光の場所故に、光を封じて暗闇にするために松取りの闇が置かれてきました。
徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、上野は門前町が開けました。寺院や神社は古くから隠された松取りの場所であり、土地の光を封じる役目でした。幕末維新の時には、幕府軍と新政府軍との戦いである戊辰戦争(上野戦争)があり、支配層によって松取り工作が成されてきました。上野戦争で寛永寺が焼失して、その跡地が現在の上野公園となりました。上野公園(上野恩賜公園)は、桜の名所でもあり、多くの人々が集まり、"人集め子どもさらい"という支配層の松工作拠点となっています。過去に寛永寺や上野公園の上野大仏についてのワークを行っています。
《東京 寛永寺 ~巡礼の旅(46)~》や《神奈川 大仏とスポーツ施設の闇の解除 ~巡礼の旅(462)~》にワークの詳細が記されています。《多くの鳥類が集まる不忍の池の光を封印するために置かれた日本で最も古い動物園の上野動物園》には、多くの野鳥が集まる不忍池の光を封じるために松取りの闇としての上野動物園が置かれたことが書かれています。台東区の上野エリアには、多くの観光名所があり、支配層の松工作が成されています。当然、松取り場所には、子どもや女性をさらう反社・同和の現場工作員が多く存在します。
こうした支配層の松工作の現場作業員であるチンピラ・半グレなどの裏世界の仕事を生業としている人たちが「宝島夫妻殺害事件」の背景となるのです。wikiにある『第二次世界大戦後、戦災や外地からの引揚げなどで行き場を失ったホームレスや戦災孤児が多数、駅の地下街や周辺で寝起きするようになった』の箇所が気になり、もう少し調べてみました。すると、2022/8/15の産経新聞の記事《子供たちを翻弄した戦争 上野駅地下道にあふれた孤児》を見つけました。掲載された上野駅にたむろする戦争孤児の写真を見ると胸が痛くなります。
『空襲の爪痕が街の各所に残っていた昭和21年の東京・浅草。満州から家族と生まれ故郷に引き揚げてきた深谷隆司(86)は、浅草区日本堤(現台東区)にあった田中国民学校(後の田中小学校)に身を寄せていた。深谷はのちに政治家となり、通産相などを歴任する。[駅に孤児300~400人]田中小に住む前、深谷は上野駅で数え切れないほどの浮浪児(戦災孤児)を見ている。大連から長崎・佐世保港へ帰国した一家は、引揚列車で上野駅に着いた。しかし、親戚とは連絡がつかず、家族には泊まる所も行き先もなかった。
「それで上野駅の地下道に行った。2週間ぐらいはいたと思う」。NHKがラジオで放送していた「尋ね人の時間」と呼ばれた番組に、知人への呼びかけを依頼し、連絡を待った。東京大空襲で焼け残った上野駅の地下道は、家を失った人々と孤児であふれていたという。「浮浪児たちは食べられないから、空腹で食料を盗んだり、物を盗んだり。気の利いたのは靴磨きをやったりしていたけれど、窃盗が圧倒的に多かった」。リュックサックを体の前に置き、両手で荷物を横に抱えて持ち物を守った。夜は荷物を敷いて、その上に家族で寝た。
「みんなそうしているから、違和感はないんです」そう振り返る深谷と、浮浪児たちとを隔てたものは、言うまでもなく親の存在だった。「うちのおやじは、なんだかんだとお芋だとかいろんな物を持ってきてくれて、食いつないでいた。だけど、常にひもじかった。僕らも盗みたくなったのを覚えている。さすがに盗まなかったけれど」。厚生省が23年2月に行った「全国孤児一斉調査」では、アメリカの統治下にあった沖縄県を除く全国で孤児は12万3511人を数えた。東京大空襲による死者は、浅草区だけで1万1190人(警視庁消防部空襲火災概要)。
台東区によると、都内で焼け出されて家のない人の57%が上野周辺で暮らし、上野駅と京成上野駅へ通じる地下道には20年11月当時で千数百人が住み着いていた。その中には子供が300~400人いたとみられている。親と家を失った子供たちの多くが、駅で生き延びようとした。しかし、餓死や冬場の凍死は絶えなかった』。ワークで宝島龍太郎が「日本人孤児」と伝えられたのは、このことだったんだと納得しました。過酷な環境の中で、その日の食べ物を手に入れることに必死だったことは容易に想像できます。生きるために、盗むことも当たり前だったのでしょう。
この上ないひもじく貧しい生活を経験してきた故に、何よりも金に執着することは分かります。上野周辺には、過去に極限的な闇を経験した人たちが多く暮らしており、深い闇の地に変わっていったのだと感じます。終戦後、中国大陸・朝鮮半島から引揚げてきた人たちの中には、満蒙開拓移民も多くいました。《多大な犠牲者を生み松利権網の創価の闇に繋がる暗黒の国家事業・満蒙開拓移民》にありますが、満蒙開拓移民は、支配層の隠された松取り工作だったと捉えています。満州からの引揚者の中には、自然の流れで松取りの現場工作員となっていった人もいると見ています。(つづく)