20090321那須岳


「宝島夫妻殺害事件」の舞台は、東京都台東区上野と、もう1つが栃木県那須町です。2024416日に栃木県那須町で宝島龍太郎夫妻の遺体が発見されて事件が発覚しました。「那須町」についての調査とワークを行っていきました。那須町の情報はwikiに記載されています。『那須町は、栃木県北東部に位置し、那須郡に属する町である。那須塩原市への通勤率は20.7%(平成22年国勢調査)。[地理]町の南西を那珂川が流れ、東側には八溝山地がある。北東部は黒川が流れ、途中までは福島県との県境になっている。

 

北西部は茶臼岳や朝日岳、白笹山などが聳え、その麓には大リゾート地の那須高原があり、町中央部は高久丘陵が占め、標高の下る大田原の方へ向かって扇状地となっている。町のほぼ中央を北東⇔南西方向に東北自動車道や国道4号、東北新幹線(北部の約60%はトンネル区間)が通っている。東部をJR東北本線、また国道294号が南北方向に通っており、本町と福島県白河市の境には境の明神がある。また那須御用邸があり、ロイヤルリゾートしても知られる。[気候]標高が高いために極めて寒冷で、ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候に属する。

 

冬季から春季にかけてしばしば氷点下5度を下回る。夏季も冷涼であり、8月の日平均気温は21.0℃と、旭川市の21.2℃と同水準である。 降水はとりわけ夏季に多く、日照時間は短い』。那須町の一番の特徴は、「那須御用邸」です。御用邸とは、簡単に言えば、天皇一家の別荘です。wikiには『御用邸とは、天皇・皇后・皇太子や皇女、皇太后の別荘である。年に数回、静養を兼ねて避暑や避寒で訪れる。宮内庁の定義では、一定規模の建造物と敷地を有するものを離宮とし、小規模のものを御用邸と称している』と記されています。

 

昔は、各地に御用邸がありましたが、現在は、那須御用邸(栃木県那須町)、葉山御用邸(神奈川県葉山町)、須崎御用邸(静岡県下田市)3箇所となっています。天皇は、支配層・八咫烏のトップであり、天皇の拠点が那須町、葉山町、下田市にあることは、意味があると感じます。《森喜朗元首相が裏金・キックバック再開の黒幕疑惑の反論で「下田」のワードを出したのは何故なのか?》にある森喜朗元首相が「下田」をリークしたのは、天皇の別荘である須崎御用邸のある場所という意味もあったと捉えています。

 

那須町のもう1つの特徴は、観光名所が多く特に、テーマパークや各物館が数多くあります。wikiの「名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事」のテーマパーク・博物館の項目には以下の22施設が記されています。『那須ハイランドパーク 南ヶ丘牧場 那須サファリパーク(東北サファリパーク那須支店) 那須高原りんどう湖ファミリー牧場 那須どうぶつ王国 那須とりっくあーとぴあ 那須高原 清流の里 アルパカ牧場(那須ビッグファーム) 那須ワールドモンキーパーク 大麻博物館 戦争博物館 藤城清治美術館那須高原 那須ステンドグラス美術館 エミールガレ美術館 

 

那須高原セント・ミッシェル教会 那須高原ビジターセンター 那須平成の森フィールドセンター アート・ビオトープ那須 ボタニカルガーデン アートビオトープ「水庭」 石の美術館(隈研吾設計) 那須歴史探訪館(隈研吾設計)』。栃木県の1つの町の中にテーマパーク・博物館が22もあることが不可思議に思います。ディズニーやUSJのように大規模テーマパークでなくともテーマパークや遊園地は、典型的な「人集め子どもさらい」の支配層の松工作場所となります。そうなると自然に那須町も支配層の松利権の工作拠点という位置づけになります。

 

那須町のテーマパーク・博物館の中で「戦争博物館」が気になり、公式サイトを調べると、戦争博物館の創設者・名誉館長は、栗林白岳(くりばやしはくがく)でした。wikiに掲載されている経歴には『栗林白岳(1928-2019)は、日本の軍人、獣医、博物館館長。[概要]長野県出身、14歳より満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡り、日本の敗戦後はシベリア抑留される。帰国後は妻子がいて中古車販売を行っていたが失敗して家族を残して失踪。兵庫県で飲食店を始めて成功して再び家族と暮らすようになっていたが、事業を拡大し過ぎて借金を返せなくなり二度目の失踪。

 

栃木県那須町で私財で戦争博物館を開館。博物館では旧日本軍の武器や軍服などを約15,000点展示。栗林白岳の死後は親交のあった新潟県新潟市の本里福治が代表理事となり一般社団法人戦争博物館とされて運営されている。815日の靖国神社では軍服を着て参拝していた。2016年には安原伸によって栗林白岳の生涯を追う映画「昭和九十年」が製作される』と記されています。栗林白岳は、軍人で獣医であり、満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡り、日本の敗戦後はシベリア抑留されて帰還していることから、八咫烏の松工作員だったと感じます。

 

映画が作成されているのが証です。戦争博物館の創設者・名誉館長として、戦争の悲劇の美談を広報して、戦争の真実を隠す工作活動を続けていたと推測します。栗林白岳が満蒙開拓に関わっていたことから、那須町全体も満蒙開拓団(満蒙開拓移民)に関係している可能性を感じました。ネットで調べると、やはりそうでした。《那須の酪農|地域|NHKアーカイブス》には、『引き揚げから始まった荒野の開拓 栃木県・那須高原は、涼しい気候を生かした全国有数の酪農地帯です。戦後間もなく、那須の千振(ちふり)地区で酪農が始まりました。

 

旧満州の千振開拓団の人たちが戦後引き揚げた際に、国が入植地として斡旋したのが那須の原野です。同じ千振と名付け、やせた土地をふたたび開拓し、満州での経験を生かした酪農に活路を見出しました。飼料の生産から搾乳、牧舎の管理まで、仲間で手分けし助け合いながら進めます。父や祖父の世代が育んできた千振の伝統を受け継ぐ、那須の酪農です』と記されています。那須町千振に満州からの引揚者たちが入植したのです。《碑銘「開拓」 栃木県那須町・千振開拓》には、『全国開拓振興協会は会員の協力を得て、開拓の歴史・精神を記録する「開拓記念碑」の調査を実施している。

 

栃木県北部の那須町・千振(ちふり)開拓は、1946(昭和21)年、満州開拓引揚者73戸が入植。千振の名称は、満州開拓の地元の地名に由来する。第2の開拓に打ち込み、開墾。当初は陸稲、麦中心の畑作経営であったが、気象災害が多く、低収だった。そのため、畑は飼料作物を導入し、酪農に切り換えた。現在、日本でも有数の酪農地帯となっている。開拓記念碑は入植から20年を迎えた66年の建立で、碑銘は「開拓」。碑文の末尾には、「二代三代さらに吾等の子孫がよき村人として立派な日本農民としてこの大地に育ちくれんことを。開拓は決して死なない」とある』と記載されています。

 

満蒙開拓団については《多大な犠牲者を生み松利権網の創価の闇に繋がる暗黒の国家事業・満蒙開拓移民》に詳細を記しています。満州国へ渡った農業移民、満蒙開拓団は、全国から約27万人であり、 そのうち約8万人が犠牲になったとされます。満蒙開拓は、北海道開拓と同様に、隠された支配層の松利権工作という人命を金に換える裏の金儲けだったと捉えています。また、満蒙開拓引揚者の多くが支配層の配下の現場工作員だったと推測します。那須町千振が第二の開拓地になったことは、隠された松取りの闇が那須の地に置かれたことになります。(つづく)