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長岡市のwikiから現在の辛抱が将来の利益になるという代名詞となった「米百俵(こめひゃっぴょう)」に着目しました。wikiには、『1870(明治3)5月長岡藩に支藩の三根山藩から100俵の救援米(米百俵)が送られる。615日三根山藩から送られた米を売却して得た資金などをもとに、国漢学校を昌福寺から坂ノ上町に移設。洋学局と医学局を新設』と記されています。米百俵の情報はwikiに記されています。『米百俵は、幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事。

 

後に山本有三による戯曲で有名になった。この逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語として引用される。[内容]河井継之助が率いた北越戦争(戊辰戦争の一つ)で敗れた長岡藩は、74000石から24000石に減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えなかった。

 

売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきった。この米百俵の売却金によって開校したのが「国漢学校」であり、洋学局と医学局が設置された。この学校は士族によって建てられた学校であるが、一定の学力に達した庶民の入学も許可された。国漢学校は、現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校の前身となった。

 

なお長岡藩江戸上屋敷にも国漢学校があり、長崎に医術の修行のため内地留学も出していた。[余談]この物語は「米百俵の精神」という言葉になり、内閣総理大臣だった小泉純一郎が、小泉内閣発足直後の国会の所信表明演説で引用されて有名になり、2001年の流行語大賞にも選ばれた。長岡市内では音楽イベント「米百俵フェス」や秋に行われる「米百俵まつり」、再開発地区「米百俵プレイス」など様々な場面で名前が取り入れられている』。長岡藩の人々が食べる物にも困窮している時に、送られた米100俵を金に換えました。

 

そして、学校を作り、それが藩の将来のためになったという美談に変えています。本来ならば食糧の確保が第一優先です。長岡藩の大参事・小林虎三郎は、一般大衆に困窮を我慢させて、支配層が利益を得て支配するための工作を成したと捉えています。「米百俵の精神」の看板に使って、元首相・小泉純一郎が現代でも搾取支配の工作をしているのです。小泉純一郎は、原発推進派から反対派に転換して、いかにも庶民の見方のように見せて、より巧妙な原子力工作を行って一般大衆を騙し続けています。既に替え玉になっていますが、歴代総理大臣の中でも飛びぬけて腹黒い工作員です。

 

そもそも、戊辰戦争自体が支配層の遺体集めの松工作であり、多くの藩士などの人たちが松取りの犠牲になっています。今も支配層の松工作であるイベントに米百俵が利用されていることは、小林虎三郎が源流の工作の闇が長岡の地に引継がれているのです。米百俵の逸話と工作の源流の小林虎三郎の情報はwikiに記されています。『小林虎三郎は、日本の武士・越後国長岡藩士。大参事。「米百俵」の逸話で知られる。[経歴]文政11年(1828年)、現在の新潟県に長岡藩士・小林又兵衛の三男として誕生。幼少の頃、疱瘡により左目を失明する。長岡藩校・崇徳館で学び、若くして藩校の助教を務めるほどの学識深い俊英だった。

 

23歳の時に藩命で江戸に遊学をして、当時兵学や砲学、洋学で有名な佐久間象山の門下に入る。[業績]戊辰戦争の戦災によって壊滅的な打撃を受けた長岡で、四郎丸村(現在の長岡市四郎丸)にある昌福寺の本堂を借り、仮校舎として国漢学校を開校させた。その後、長岡藩の支藩であった三根山藩が長岡藩の窮状を察して米百俵を寄贈したが、分配されることを望む藩士らに向けて虎三郎は、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育第一主義を唱え、その米百俵の売却益を元手に、学校に必要な書籍、器具の購入にあてた。

 

明治3615(1870713)に国漢学校の新校舎が坂之上町に開校した。校内には洋学局や医学局という珍しいものまで設置され、更に藩士の子弟だけで無く農民や町民の子供も入学許可され、門戸を拡大された』。米百俵を金に換えて藩の人たちに対して搾取支配の工作を成した小林虎三郎と米百俵を戯曲で美談化して有名にした人物である山本有三(1887-1974年・小説家、劇作家、政治家)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「プレアデスの闇」「工作員」と伝えられました。小林虎三郎には、工作の闇の叡智を有するプレアデスの闇が憑いていたようです。

 

幕末維新の時の代表的な2人の長岡藩士もワーク対象に選びました。長岡の復興と近代化の尽力した三島億二郎(みしまおくじろう)と戊辰戦争の北越戦争で長岡藩側を主導した河井継之助(かわいつぎのすけ)です。三島億二郎(1825-1892)は、江戸時代末期から明治時代にかけての武士(越後長岡藩士)、政治家、実業家です。河井継之助や小林虎三郎らとは近所の幼なじみでした。北越戦争で疲弊した越後国(新潟県)長岡の復興と近代化に尽力した人物です。河井継之助(1827-1868)は、江戸時代末期(幕末)の武士で、越後長岡藩牧野家の家臣です。

 

戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られます。剣術や学問に励み、1852年、25歳で江戸に出て佐久間象山の下で蘭学や砲術を学びます。長岡藩に戻り、39歳のときに郡奉行となると、庶民の暮らしが豊かになるよう、財政立て直しなど藩政改革に努めます。河井継之助は、小林虎三郎と同様に、佐久間象山の門下で蘭学や砲術を学んだので、私の過去世と縁があると感じます。三島億二郎河井継之助の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「サンカ」「任侠」と伝えられました。支配層の松工作の現場仕事を担っていたと見ています。(つづく)