弘前市の初代市長・菊池九郎(1847年-1926年)は、「東奥の西郷隆盛」と称され、弘前市の支配層の重要人物だと感じました。菊池九郎-wikiには、『1870年(明治3年)鹿児島へ留学して薩摩藩の西郷隆盛に心酔する。同藩の兵学校(鹿児島兵学校)に入り、兵制や砲術を研究。広く内外の形勢に触れ、開国進取の思想と育英事業の思想に開眼した。鹿児島から帰郷した後、旧藩主津軽承昭の援助をうけ、藩校・稽古館の校舎を利用して立漢英学校を興し東奥義塾と名付ける。教師の世話を頼むため、上京して福澤諭吉と面会し、永鳩貞次郎、吉川泰次郎の二人を教員として引き連れて帰郷。
東奥義塾は津軽家の支援のもとに運営され、創立当初の東奥義塾は「慶應義塾弘前分校」的色彩が強く、慶應義塾出身の吉川泰次郎の下に教授、助教授、寮監三十六名、会計三名、漢学英学二学部の体制で、開校当初から生徒数は400名という大変な盛況であった』と記されています。弘前市の初代市長・菊池九郎が設立した「慶應義塾弘前分校」と言える「東奥義塾(東奥義塾高等学校)」を追うことにしました。「東奥義塾高等学校」の情報はwikiに記されています。『東奥義塾高等学校は、青森県弘前市大字石川字長者森にあるキリスト教(プロテスタント)系の私立高等学校。
通称は「義塾」。[沿革・略歴]弘前藩の藩校稽古館は、1872年(明治5年)5月、弘前漢英学校へと引き継がれたが、同年8月の学校制度改革により、廃止となった。このため、旧藩主である津軽承昭による財政的援助のもと、菊池九郎が創立者となり、旧藩校の教師、施設、教科書などがほぼ引き継がれる形で、同年11月、弘前漢英学校が開学した。まもなく菊池が学んだ慶應義塾にならって東奥義塾と名付ける。1874年(明治7年)、英語教師として東奥義塾に来ていたジョン・イングの母校であるアズベリー大学に塾生5名を派遣。
当初から高い給与で外国人教師を雇い、アメリカの教科書を使用していたため、1878年(明治11年)の「日本奥地紀行」の著者イザベラ・バードにカレッジと言われた。現に東奥義塾出身者5名が1877年(明治10年)に初めてアメリカに留学しているが、すぐに現地の大学に進学できるなど、現地の学生にひけをとらなかったとされている。しかしながら、外国人教師はいずれも伝道者であり、伝道による宣教効果が上がるにつれ、また、本多庸一塾長などによる自由民権運動が活発化するにつれて、風あたりが強くなり、1882年(明治15年)末には旧藩主からの財政支援も途絶えることとなった。
財政難から1901年(明治34年)3月末、弘前市へ移管されたものの、1910年(明治43年)、県立工業学校(現・青森県立弘前工業高等学校)の弘前設置(校舎は東奥義塾を転用)と引き替えに廃校することとなり、それまで県へ移管することとなった。県立工業学校開校に伴い、県立弘前中学校東奥義塾は1914年(大正3年)3月に廃校となった。その後、米国メソジスト・ミッション(伝道教会)と東奥義塾再興を願う地元関係者の働きで、塾長に笹森順造を迎え、1922年(大正11年)に再興となった』。一般的に、宗教団体が設立した幼稚園や学校は支配層の松利権の闇が潜んでいると捉えています。
子どもや青年の魂の光を封じる闇の役割だからです。古くから、実質的には、支配層の松利権と工作員養成を兼ねている学校制度となっています。現在の東奥義塾は、米国メソジスト・ミッション(伝道教会)などによって再興されています。このキリスト教カトリックのメソジスト派が深い闇の役割を担っています。《キリスト教メソジスト派の設立者で野幌森林公園を封じる役割の酪農学園大学》にある酪農学園大学は、「日本酪農の父」や「北海道開拓の父」と呼ばれた黒澤酉蔵(とりぞう)によって設立されましたが、黒澤酉蔵は、日本メソジスト札幌教会で杉原成義牧師より受洗を受けています。
黒澤酉蔵に光を降ろすと「黒い人。松喰い。指名されてやっていた」と伝えられました。これまでのワークの経験からキリスト教の中でも特にメソジストは、松取りの闇・悪魔崇拝の闇が深い宗派だと見ています。東奥義塾の過去(故人)の関係者として、津軽承昭(つがるつぐあきら)、ジョン・イング(John Ing)、本多庸一(ほんだよういち)をワーク対象に選びました。津軽承昭(1840年-1910年)は、東奥義塾の財政的援助者です。江戸時代後期から大正前期にかけての大名、華族です。陸奥国弘前藩12代(最後)の藩主・藩知事です。
津軽承昭は、熊本の細川家からの婿養子で津軽家に入った人物でもあります。ジョン・イング(1840年-1920年)は、東奥義塾の英語教師でした。アメリカ・イリノイ州でメソジスト派の牧師の息子として農村に誕生しました。日本で活動したアメリカ人宣教師で、本多庸一と共に弘前教会を設立しました。リンゴを日本に紹介した宣教師としても知られています。本多庸一(1849年-1912年)は、東奥義塾の塾長でした。青森県弘前市出身のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家です。日本メソジスト教会の初代監督です。
新島襄、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされます。津軽承昭、ジョン・イング、本多庸一の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「工作員」「悪魔崇拝」と伝えられました。やはり、エゴや悪魔崇拝の闇の工作員の役割の関係者のようです。東奥義塾の現経営層もワークを行いました。学校法人東奥義塾の理事長・森内美夫、塾長・コルドウェル・ジョン(Caldwell John)、本部所在地(青森県弘前市石川長者森61-1)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろしました。
「創価」「悪魔崇拝」「いいです」と伝えられました。現在も支配層の工作員の役割を担っているようです。弘前市で支配層の松工作の闇が置かれている重要な場所が「弘前城」です。全国各地にある大名の拠点である「城」は、松喰い(松果体摂取)が行われた場所であり、深い闇の場所になっています。戦の時代には、亡くなった人の御魂も留まっており、城跡の闇を解除・統合することが重要になります。弘前城の情報はwikiに記載されています。『弘前城は、陸奥国鼻和郡弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にある日本の城。別名・鷹岡城、高岡城。
江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。[概要]江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612m、南北947m、総面積38万5200平方mに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめている。
8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。小説家の司馬遼太郎は紀行文集「街道をゆく - 北のまほろば」で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している』。弘前城の築城主・津軽為信(つがるためのぶ・1550年-1608年)と所在地(青森県弘前市下白銀町1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「官僚。家康の松取り部隊」「いいです」と伝えられました。現在の弘前城は、弘前公園として整備され多くの人々が集まる支配層の松工作拠点として活用されています。(つづく)