弘前市には、明治時代に陸軍第八師団が駐屯する軍都となった歴史があります。陸軍第八師団を調べていくとwikiに「小野田寛郎(おのだひろお)」が第8師団参謀部に所属していたことが書かれていました。『小野田寛郎 終戦の後もフィリピンのルバング島に残置諜者として潜伏し30年を経て帰還した小野田寛郎少尉は、辞令の上では第14方面軍司令部附であったが、同司令部情報部を通して第8師団参謀部に所属していた。小野田が主宰する小野田自然塾ホームページでは自身の軍歴を第8師団の通称号である「杉」を用いて「杉兵団参謀部に配属」と紹介している』。
当時、小学校6年生だった私は、フィリピンから日本に帰還して一躍、日本国民のヒーロー的存在となった小野田寛郎がテレビに映っている姿を薄っすら覚えています。小野田寛郎が陸軍第八師団所属だったことは、"何かあるな"と直感しました。陸軍第八師団は、死者199名を出した「八甲田雪中行軍遭難事件」の当事者だったからです。「小野田寛郎」について調査とワークを進めることにしました。「小野田寛郎」の経歴などの情報はwikiに記載されています。『小野田寛郎(1922年-2014年)は、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)出身の陸軍軍人、実業家。
最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。和歌山県出身。情報将校とし第二次世界大戦に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還した。その後は、メディアにつきまとわれた事もあり、戦後の日本への適応は困難であった。[経歴・生い立ち]大正11年(1922年)、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・小野田種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。
旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店(現:中華人民共和国湖北省武漢市)に勤務しつつ勤務中国語を習得した。なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部及び陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は東京帝国大学及び陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し航空部隊関係の兵科将校(最終階級陸軍少尉)となっている』。NHKの《小野田寛郎(1922~2014)旧陸軍少尉 あの人に会いたい》にも、小野田寛郎のプロフィールが書かれています。
『旧陸軍少尉、小野田寛郎。太平洋戦争が終わった後もフィリピンのジャングルに潜み、戦後29年目に生還した。小野田寛郎は大正11年、和歌山県で生まれた。旧制中学卒業後、貿易会社に就職し中国に渡った。昭和17年、徴兵検査を受け現役兵として入隊。その後、選抜され陸軍中野学校二俣分校に入校。特殊訓練を受け、昭和19年フィリピンのルバング島に派遣される。任務は島にいる守備隊を指導し、ゲリラ戦を展開することだった。以後、昭和49年まで終戦を信じず、密林の中で戦い続けた。
帰国後は日本社会になじめずブラジルに移住。しゃく熱の原野を切り開いて広大な牧場をつくり、その経営に成功した。さらに、昭和59年から野外活動を通して子どもたちの「生きる力」をはぐくむ「自然塾」の活動を続けた。時代に翻ろうされながらも、力強く生き抜いた小野田寛郎の思いが語られる』。小野田寛郎は、陸軍中野学校二俣分校の所属でした。《陸軍中野学校二俣分校跡と本田宗一郎ものづくり伝承館が浜松市二俣町に存在する意味》から陸軍中野学校の兵士は、戦争という松取り工作を遂行する役割だったと見ています。
小野田寛郎は、中学卒業後に貿易会社に勤め中国・武漢で中国語を習得しています。そして、小野田寛郎の父は政治家です。2人の兄と弟は、いずれも軍人であり、特に長兄は軍医です。軍医は、旧日本陸軍の松取り部隊の中軸だと捉えています。これらのことから、小野田寛郎は、明らかに工作員の家系に生まれていると感じます。小野田寛郎の帰還に繋がった発見者の鈴木紀夫(冒険家)と小野田寛郎の上官だった谷口義美(元陸軍少佐)についてもwikiに記述されています。『1974年に、一連の捜索活動に触発された23歳の冒険家・鈴木紀夫が単独でルバング島を訪れた。
2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。日章旗を掲げてテントを設営していた鈴木は小野田に急襲され、銃を突きつけられた。鈴木が「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿でありますか?。長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と伝えた。落ち着きを取り戻し銃を置いた小野田は鈴木と話して夜を明かし、上官の命令解除があれば任務を離れることを了承した。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。その後の3月4日、鈴木とともに小野田の元上官である谷口義美(元陸軍少佐)がルバング島に上陸した。
3月9日に小野田は2人の前に姿を現し、谷口による任務解除命令を受けて投降した』。小野田寛郎をフィリピンのジャングルで発見した鈴木紀夫(冒険家)にはwikiが存在します。『鈴木紀夫(1949年-1986年)は、千葉県市原市八幡出身の冒険家。習志野市立習志野高等学校卒業。法政大学経済学部二部中退。[経歴]1969年3月主にヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至るバックパッカーの旅に出る。・・1975年7月ヒマラヤ・ダウラギリ群の南東稜コーナボン側斜面の4200m付近に「5頭の類人物を望遠観察した」と主張。
1978年結婚。喫茶店を夫婦で営んでいた。1986年11月ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難。1987年10月7日遺体発見。享年37』。冒険家の鈴木紀夫は、37歳の若さでヒマラヤで遭難死しているのです。不自然な死に方であり、感覚的には、偽装死か口封じの可能性があると思いました。小野田寛郎の妻・小貫町枝の情報もwikiに書かれています。『1976年、東京で損害保険代理店を経営していた小貫町枝がブラジルに渡航した。小野田のもとに押しかけてきたことで知り合い結婚。町枝夫人は、その後晩年までブラジルと日本を行き来するようになる小野田のマネージャー役を務めるようになった。
1979年5月に発足した「バルゼア・アレグレ日伯体育文化協会」初代会長に就任。・・妻・町枝は2006年、安西愛子の後任として日本会議の女性組織・日本女性の会の会長に就任した。保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であった。2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している。
また、田母神論文問題で更迭された田母神俊雄元航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻とともに名を連ねている』。日本会議・チャンネル桜や慰安婦工作にも関わっていることから小野田寛郎の妻・小貫町枝は、工作員の役割だと捉えています。小野田寛郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「1級工作員アクター」と伝えられました。小野田寛郎の発見者・鈴木紀夫(冒険家)、小野田寛郎の上官・谷口義美(元陸軍少佐)、小野田寛郎の妻・小貫町枝の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろしました。
「金。冒険家だけじゃない。口封じかも」「工作員」「工作員」と伝えられました。やはり、小野田寛郎のフィリピンからの生還劇は、支配層の配下の工作員の役者による芝居劇だったようです。では、小野田寛郎の帰還劇を仕立た支配層の目的は何か、です。まず、第一に戦争という悲劇の中に美談を置くことで、支配層の裏の目的が松取りなどの金儲けであるという戦争の真実を隠すことができます。第二に、フィリピンのジャングルからの奇跡的に生還した小野田寛郎を時のヒーローに祭上げることで、本、ドラマ、映画などで支配層の工作員・工作組織に金儲けをさせるできます。
第三に、支配層にとってヒーローになった小野田寛郎に一般大衆に目を向けさせることで支配・コントロールが容易になります。wikiには、小野田寛郎が出演したテレビ番組、小野田寛郎を題材にした楽曲、小野田寛郎に関する著書が列挙されています。また、小野田寛郎は、工作員の証となる勲章(サントス・ドゥモン功労勲章(ブラジル)・藍綬褒章)も授与されています。私もすっかり小野田寛郎の生還劇に騙されてきました。支配層は、嘘をついて大衆を騙すことで金儲けをしているのです。嘘をつくことが金になるという実に歪んだ闇の世界です。
個人的には、10年以上前に、ライターが仕事の一部だった個人事業主をしていたので、税務署から問合せが来て気づいたことがあります。文筆業は、個人事業税が非課税になるのです。執筆家や作家が優遇されている理由は、明らかです。支配層の工作活動を担っているからです。現実世界は、一般大衆が金で支配されて暗闇に入るシステムが構築されているのです。過去の歴史にも嘘・工作の闇が数多く置かれていると感じます。嘘で成り立っている支配層の闇のシステムを壊すためには、一人ひとりが真実を探求して嘘や工作を見破っていくことが重要だと思います。(つづく)