明治時代に弘前市に駐屯していた「陸軍第八師団」と第八師団が当事者で死者199名を出した「八甲田雪中行軍遭難事件」について追跡することにしました。陸軍第八師団の情報はwikiに記載されています。『第8師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。1898年に立見尚文を初代師団長に弘前で結成。[概要]日清戦争が終り、軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つで、兵士はおもに東北地方出身者から構成された。編成時の所属歩兵連隊は歩兵第5連隊・歩兵第17連隊・歩兵第31連隊・歩兵第32連隊。
初代師団長は台湾総督府幕僚参謀長だった立見尚文中将。1898年11月15日に師団司令部、監督部が開庁した。[歴史]〈八甲田雪中行軍遭難事件〉勝利に終った日清戦争であるが、ロシア・フランス・ドイツによる所謂三国干渉によってロシアとの間に緊張が高まっていた。ロシアとの一戦は避けられないとの予測から陸軍は対露戦を準備し、寒冷地での訓練を第8師団に指示した。これに基づき師団は1902年(明治35年)1月八甲田山における行軍訓練を行ったが、この時死者199名という惨事を起こしている。これが八甲田雪中行軍遭難事件である。
〈日露戦争〉・1904年(明治37年)6月日露戦争開戦。師団は動員下令となるが戦地には派遣されず、大本営の戦略予備隊に位置付けられる。・大本営は沿海州攻撃用の兵力として拘置していたが、戦争計画に無かった旅順要塞に海軍要望で3コ師団も取られ、全体戦況も芳しくなく、遂に大陸の満洲軍に第8師団を、同じく樺太作戦用の大本営戦略予備の第7師団を旅順へ送ることとなった。・1905年(明治38年)1月に至り黒溝台会戦に援軍として派遣されるが、ロシア軍に包囲され大きな被害を出した。救援に来た第3師団、第5師団がロシア軍を撃退し第8師団は解囲される。
・3月:奉天会戦に参加する。〈日露戦争後〉1910年朝鮮半島に駐留し、1921年(大正10年)シベリア出兵に参加する』。陸軍第八師団の特徴は、兵士が主として東北地方出身者から構成されていたことです。東北の人たちは、戊辰戦争でもそうですが、松取り現場などの過酷な環境での兵役を課されてきました。それは、シリウスの光の土壌のある東北の人と土地を封印する意味があったと感じています。陸軍第八師団の初代師団長・立見尚文(たつみなおぶみ)と最後の師団長・横山静雄に着目しました。
立見尚文(1845年-1907年)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人で、最終階級は陸軍大将です。八甲田山雪中行事遭難事件時の師団長でした。数々の功績により、旧幕府軍出身者ながら日露戦争終結の1906年に陸軍大将に昇進しました。しかし大将昇進直後に体調を崩して病気休職となり、それから間もない翌1907年3月に61歳で死去しました。横山静雄(1890年-1961年)は、福岡県出身の陸軍軍人で、最終階級は陸軍中将です。終戦後、戦犯として逮捕され、1949年5月、フィリピンのマニラ法廷で死刑判決を受けたが減刑された。
1953年12月、巣鴨プリズンから釈放されました。第8師団の初代師団長・立見尚文と最後の師団長・横山静雄の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」「DS」と伝えられました。2人とも八咫烏の同和派の工作員の役割だったと見ています。第8師団の八甲田山における行軍訓練時に起きたのが「八甲田雪中行軍遭難事件」です。八甲田雪中行軍遭難事件の情報はwikiに記載されています。『八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。
訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大の山岳遭難事故である。[雪中行軍]日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は10年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなる。
雪中行軍は青森歩兵第5連隊210名が1902年1月23日から、弘前歩兵第31連隊37名と新聞記者1名が1月20日から2月1日までそれぞれ異なる経路を行軍した』。雪中行軍を行ったのは、青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊です。2隊の内、弘前歩兵第31連隊は成功しましたが、青森歩兵第5連隊が遭難して多数の犠牲者を出しました。遭難部隊・青森歩兵第5連隊の指揮者・神成文吉(1869年-1902年・陸軍歩兵大尉・遭難死)と弘前第31連隊の指揮者・福島泰蔵(1866年-1905年・陸軍歩兵大尉)の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「八甲田山が松取り場所」「工作員」と伝えられました。東北の大事な山の1つである八甲田山は松取りの闇で封印されてきました。日本陸軍は事前に裏の松取りのための雪中行軍を計画して、指揮者の神成文吉が率いる青森歩兵第5連隊が松取りの犠牲になったと推測します。弘前第31連隊の指揮者・福島泰蔵は事前に分かっており、松取りの現場作業にも関わっていたと感じます。生存者は11名でしたが、その内6名は救出後に死亡しており、最終的に生き残った人は5名でした。生き残った5名の中で、銅像のモデルになった人物が「後藤房之助(ごとうふさのすけ)」です。
後藤房之助(1879年-1924年)は、宮城県栗原郡姫松村(現・栗原市)出身の政治家です。八甲田雪中行軍遭難事件での生存者の一人で、帰郷後に村会議員を務めました。八甲田山中の馬立場にある遭難事件の記念像(高さ7m)は、発見時の後藤房之助をモデルにしたもので、「後藤房之助伍長の像」「雪中行軍遭難記念像」とも呼ばれます。八甲田雪中行軍遭難事件は、日本陸軍の仕組んだ松取り工作だったと感じます。悲劇の美談を演出するために、生き残った後藤房之助を英雄に祭り上げるために銅像のモデルにしたのです。
後藤房之助が登場する映画についてもwikiに『新克利 - 映画「八甲田山」(1977年、仮名の「江藤伍長」として登場)、森谷勇太 - 映画「ドキュメンタリー八甲田山』(2014年、実名で登場)』と記述されています。また、2012年8月10日の朝日新聞の記事《インパールを生き抜いた107歳父 祖父にも驚きの過去》には興味深い内容が書かれています。後藤房之助の息子・後藤信一もインパールから生還しているのです。後藤家自体が八咫烏の松工作員の家系であることが分かります。八甲田雪中行軍遭難事件そのものは、作家の新田次郎の著書で世間に知れ渡りました。
wikiには『1971年(昭和46年)、新田次郎が「八甲田山死の彷徨」として小説化。さらにこの小説を原作とした1977年(昭和52年)の映画「八甲田山」で一般に広く知られることになった』と記されています。新田次郎(本名:藤原寛人・1912年-1980年)は、長野県諏訪郡上諏訪町角間新田(現・諏訪市上諏訪角間新田)出身の小説家、気象学者です。無線電信講習所(現・電気通信大学)卒業後、中央気象台に勤めるかたわら執筆。山を舞台に自然対人間をテーマとする、山岳小説の分野を開拓しました。
「強力伝」(1955年)で直木賞受賞。作品に「孤高の人」(1969年)、「八甲田山死の彷徨」(1971年)などがあります。後藤房之助、新田次郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松取りの功労者」「工作員」と伝えられました。最後に、八甲田山の北側の麓に置かれた雪中行軍遭難記念像所在地(青森県青森市横内八重菊6)と八甲田山に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。旧日本軍を含めた支配層の工作は、真実を巧妙に隠蔽しています。ポイントは、悲劇の美談の芝居を創作し、小説・映画・ドラマなどで大衆に広めて嘘を真実に変えていくのです。(つづく)