弘前市の市章が卍(まんじ)であり、地図記号の寺院を意味しています。wikiには『1898年(明治31年)10月-東北地方北半を管区とする第8師団が設置される。1900年(明治33年)- 市章を卍に制定』と記述されています。弘前市に陸軍第八師団が設置された後に市章が卍に制定されています。寺院は古くから隠された松取り場所であり、第8師団の設置と深く関係していると感じます。また、弘前市には、寺院が集まった町が元寺町、新寺町という地名がつけられています。wikiには、『元寺町が曹洞宗寺院のみで構成されているのに対し、新寺町は様々な宗派の寺院が立ち並ぶ』とあります。
サイト情報によると、青森県弘前市には85カ寺の寺院があります。これは、青森県の寺院数の18.40%にあたります。自然豊かな光の地である故に、弘前市は隠された松取り場所の寺院が多く置かれてきたと見ています。弘前市の代表的な寺院として、「長勝寺(ちょうしょうじ)」と「最勝院(さいしょういん)」をワーク対象に選びました。長勝寺の情報はwikiに記載されています。『長勝寺は、青森県弘前市にある曹洞宗の寺院。山号は太平山。本尊は釈迦如来。[歴史]この寺は、1528年(享禄元年)大浦盛信が父光信の菩提を弔うため、菊仙梵寿を開山として種里(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町種里町)に創建された寺である。
寺号は光信の法号による。その後、賀田大浦(現在の弘前市賀田字大浦)に移され、大浦氏が堀越城に移るにあたり、堀越に移り、1610年(慶長15年)、現在地に移された。江戸時代にはこの地域における曹洞宗の僧録所であった。[伽藍]・六角堂 ・石碑 ・雪見灯籠など。1949年(昭和24年)6月27日、当時の中学校生徒8人が、弘前市内大町町会に所在した製氷会社の冷蔵庫内に閉じ込められ死亡した事故があった。その戒めとして、また被害者供養を行うため、翌年に犠牲者の一人の父親で製氷会社社長であった加藤策朗が、長勝寺敷地内に建立。
2005年(平成17年)12月に市道改良工事に伴い弘前市によって、解体除却が行われた。[関連項目]松前徳広-江戸時代末期の蝦夷島松前藩主。戊辰戦争の際に旧幕府軍に攻められた松前藩は敗走し、藩主一行は津軽藩に匿われた。弘前での生活の間に松前藩主の修広が客死し、松前氏は曹洞宗の檀家であったため当寺に葬られた。ただし数年後に遺骸は松前の菩提寺に改葬されているが、当寺での徳広の墓跡と推定される遺構が2012年に再発見、発掘された』。長勝寺は、深い因縁がある曹洞宗の寺院だと感じます。
長勝寺の住職・須藤龍哉と所在地(青森県弘前市西茂森1丁目23-8)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。wikiに記述された『1949年(昭和24年)6月27日、当時の中学校生徒8人が、弘前市内大町町会に所在した製氷会社の冷蔵庫内に閉じ込められ死亡した事故』とは、松取り工作の可能性があると感じました。その根拠は《外国人絡みの工作が浮かぶ日本礼儀作法協会と松取り工程を暗示する川口市の「遺体なき殺人事件」》にある冷凍した遺体です。『「遺体なき殺人事件」の容疑者の山口組系元組員が行った冷凍した遺体をマグロ解体機械でミンチにする方法です。
これは、現実的に松取りに使われている可能性を感じます。「マグロ解体機械」や「冷凍庫」がヒントになります。港湾の埠頭にある冷凍庫やマグロの遠洋漁業の船舶や捕鯨船などの船舶も松取りに深く絡んできます』とあり、弘前市には松取りのための冷凍技術が古くからあったのではないかと捉えました。「弘前市・冷凍」のキーワードで検索すると《青森県における製氷と氷雪利用》の研究論文に行き着きました。そこには、氷業者が青森市や弘前市で多く存在していたことが書かれています。『キーワード:製氷,氷室,貯雪,雪室,利雪,行商,農村工芸,岩木山信仰
[はじめに]庶民による氷雪の利用は、本県域では主に日本海側の津軽地方を中心として、近代以前からおこなわれてきた。一方で、近代製氷に係る天然氷の普及は、隣接する函館から移入される「函館氷」により、都市部を中心として明治初期に始まった。・・明治期における県内市町村の氷業関係者数の動向をまとめたものであるが、地域的傾向として以下のことを読み取ることができる。①南部地方よりも津軽地方での製造販売が圧倒的に盛んである。②津軽地方のなかでも特に盛んな地域は青森市・弘前市である。③製造貯蔵は弘前市が圧倒的に盛んである。
④弘前市では、店売よりも行商が盛んである。青森市では、行商も盛んであるが、店売がより盛んである。これらのことから、津軽地方とりわけ弘前市において山麓からの氷雪の採取と貯蔵販売が県内の他地域に比して盛んであり、その販売は主に行商によって担われていたということが特徴として見いだされる。・・我が国における天然氷採氷事業の先駆者である中川嘉兵衛は、青森で採氷を試みている。その年次について慶応2(1866)年であるとする記述がもろもろの書物にみられる。まずはその事実に関して確認しておきたい。
中川嘉兵衛の天然氷採取の試みについては、田口哲也著「氷の文化史」をはじめ次のように解説するものが多い。①文久元(1861)年 富士山麓 ②文久3(1863)年
諏訪湖 ③元治元(1864)年 日光 ④慶応元(1865)年 釜石 ⑤慶応2(1866)年 青森埋川 ⑥慶応3(1867)年
函館七重浜 ⑦明治2(1869)年 函館五稜郭(〇数字は、中川嘉兵衛の採氷開始からの年次)』。弘前市の冷凍・製氷は岩木山信仰と深く関わっており、感覚的に松取りが絡んでいると見ました。日本の天然氷採氷事業の先駆者である「中川嘉兵衛(なかがわかへい)」に着目しました。中川嘉兵衛の経歴はwikiに記されています。
『中川嘉兵衛(1817年-1897年)は三河国額田郡伊賀村(現・愛知県岡崎市)出身の実業家。横浜元町に横浜氷会社を設立し、北海道函館市の五稜郭の濠の天然氷「函館氷」を切り出し売り出した。[来歴]横浜開港とともに来浜し、天然氷や洋菓子の販売を始める。 1868年(明治元年)、東京での牛鍋屋の第一号となった「中川屋」を開店させる。ほぼ同時並行して天然氷の製氷事業も開拓していった。当時の氷は、遠くアメリカ・ボストンからの輸入氷「ボストン氷」であり高価なものであった。これの国産化を試みた。
まず医療伝道宣教師のジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)などの指導を受けて1861年(文久元年)富士山麓で試みたが失敗。有望地を求めて北上するが失敗の連続であった。ついに北海道へ渡り、上磯の有川(現・北斗市)でも失敗する。1869年(明治2年)に五稜郭を視察、有望と判断し、1870年(明治3年)に開拓使より濠1万7,000坪、7年間の使用権を獲得、翌1871年(明治4年)結氷670トンを切り出し「函館氷」として商品化に成功した。1890年(明治23年)に五稜郭外壕貸与規則が変更されて競争入札になったのをきっかけに亀田郡神山村に製氷池を設けて事業を継続した。
晩年1896年(明治29年)に北原鉦太郎に事業を譲った。1897年(明治30年)、東京の越前堀の自宅で亡くなった。彼が創った横浜氷会社は、宮内省御用達となり、またその後身が現在のニチレイとなっている』。中川嘉兵衛は、天然氷や洋菓子の販売と並行して、東京で牛鍋屋の第一号となった「中川屋」を開店しています。明らかに遺体や肉を保存するための冷凍用の氷であることが窺えます。彼が創った横浜氷会社(現・ニチレイ)は、宮内省御用達となったことから、松利権に直結することが分かります。冷蔵冷凍装置や冷凍庫は、支配層の松利権が絡んでいるのです。
中川嘉兵衛が指導を受けた医療伝道宣教師のジェームス・カーティス・ヘボンは《医療伝道に特化した英国・エディンバラ医療宣教会》のワークで光を降ろしており「文鎮のように重たい」と伝えられています。医療伝道そのものが裏に松取りの闇がある故に、製氷業そのものも松取りの闇が潜んでいると見ています。また、米国ボストンからの輸入した高価な「ボストン氷」の需要があることは、裏に松の冷蔵冷凍保存の必要性があったのです。日本の天然氷採氷事業の先駆者・中川嘉兵衛の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。(つづく)