弘前市の長勝寺からミイラが発見されています。《長勝寺 の墓地移転工事で津軽承祐のミイラが発見され、世間を驚かせる》には、『津軽藩の菩提寺である「 長勝寺 」には歴代藩主や藩主に近い人たちが葬られています。1954年、長勝寺の墓地が移転することとなり調査や工事が行われました。その時、墓地の地下7メートルの場所から茶殻が敷き詰められた棺に土葬された遺体が発見されます。遺体は1855年に18歳で亡くなった津軽承祐のものと判明しました。遺体は腐敗を免れミイラ化した死蝋の状態で、発見者を驚かせます。
死蝋は外気に触れず、腐敗菌が繁殖しなかったため死体全体が蝋状になる現象です。学術調査が行われたのち、津軽家の要望で遺体は火葬され再埋葬されました』と記されています。岩手県奥州市の中尊寺にも奥州藤原氏のミイラがあります。《虹色の光が放たれた中尊寺釈迦堂の解除》にありますが、ミイラは裏インドの闇が存在している証であり、松取りが行われていたことを示唆しています。次に「最勝院」に移りました。最勝院の情報はwikiに記載されています。『最勝院は、青森県弘前市銅屋町にある真言宗智山派の寺院。
山号は金剛山、寺号は光明寺。五重塔は重要文化財に指定されているものとしては日本最北に位置する。[概要]弘前ねぷたまつりで知られる弘前市の中心部、弘前城の南方の禅林街及び新寺町と呼ばれる地区には46の寺院が建ち並ぶが、その中で長勝寺と並ぶ代表的寺院であり、市民からは「五重塔の寺」として親しまれている。寺名はつぶさには「金剛山光明寺最勝院」と称し、院号は護国三部経の一つで密教色の強い「金光明最勝王経」に由来する。[歴史]「津軽一統志」によると、天文元年(1532年)、常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。
江戸時代初期に弘前藩2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことに伴い、慶長16年(1611年)、城の鬼門(東北)に当った現在地より北に3kmほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた。12か寺の塔頭寺院を従え藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった。明治時代の神仏分離令により最勝院以外の11か寺は廃寺となり、最勝院は廃寺となった寺院の檀家衆を引き受けて現在地(旧大圓寺跡)に寺籍を移転した。なお、神岡山大圓寺は弘前市に隣接する南津軽郡大鰐町に移転している。
ただし、市民からは今でも「大円寺」の俗称で呼ばれている』。最勝院の住職・布施公彰と所在地(青森県弘前市銅屋町63)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです。松取り場」と伝えられました。最勝院に限らず寺院などの宗教施設は古くから支配層の隠された松取り場でした。弘前市の大きな観光名物が「弘前ねぷたまつり」です。「まつり」は「松利」でもあり、支配層の松の利益である松利権を暗示しています。弘前ねぷたまつりの情報はwikiにあります。『弘前ねぷたまつりは、青森県弘前市で開催されるねぶた。
弘前さくらまつり、弘前城菊と紅葉まつり、弘前城雪燈籠まつりに並び「弘前四大まつり」の一つに数えられる。大勢の市民が「ヤーヤドー」の掛け声とともに、武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く。弘前ねぷたには扇ねぷた(扇型)と組ねぷた(人形型)があり、総数約80台の県内最多のねぷたが運行される。[起源]弘前ねぷたまつりの起源については諸説ある。・(伝説)平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷をおびき出すために大きな人形を作った。
・(伝承)1593年(文禄2年)旧暦7月に藩祖津軽為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の大燈籠を出した。・(定説)江戸時代の元禄期後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆燈籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷたに発展してきた。語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛(表記は佞武多、禰ふたと様々ある)。「眠り流し」は日本各地で行われている。農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払い、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ』。
ねぷた祭りの人型のねぷたは、巨人を示唆しているようにも思えます。wikiの関連項目に「津軽藩ねぷた村」があり、気になりました。観光名所である「津軽藩ねぷた村」の情報はwikiに記載されています。『津軽藩ねぷた村は、青森県弘前市にある弘前ねぷたをテーマとした体験型の観光施設。[概要・揚亀園]弘前ねぷたのお囃子の実演が行われる弘前ねぷたの常設展示館「弘前ねぷたの館」のほか津軽三味線の生演奏を聴くことができる「山絃堂」や津軽地方の民工芸品製作風景の見学や製作体験ができる体験型の施設である。
施設内には国の登録記念物となっている日本庭園「揚亀園」(ようきえん)や、東北地方でも数少ない雪国の茶室「揚亀庵」(文化財指定)、弘前市の「趣のある建物」に指定されている「蔵工房たくみ」がある。青森県内のねぶた・ねぷた施設では唯一、ミシュラン社(フランス)のミシュラン・グリーンガイド・ジャポン(観光ガイド)で掲載されている施設である。施設内は展示施設および体験施設(見学・体験エリア)と物販施設(ショッピングエリア)に大別されており、このうち展示施設のみ有料となっている』。
津軽藩ねぷた村の理事長・中村元彦と所在地(青森県弘前市亀甲町61)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「裏インド」と伝えられました。やはり観光施設は、支配層の裏の金儲けの拠点になります。弘前市には、津軽富士と呼ばれる青森の代表的な名山の岩木山(いわきさん)があります。岩木山は、青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する火山です。標高は1,625 mで青森県の最高峰です。山を封印する役割が隠された松取りが行われてきた神社や寺院の宗教施設です。岩木山を封じる役割が岩木山神社です。岩木山神社の情報はwikiに記載されています。
『岩木山神社は、青森県弘前市百沢の岩木山の南東麓にある神社。別称、「お岩木さま」「お山」「奥日光」。旧社格は国幣小社で、津軽国一宮とされる。[概要]昔から農漁業の守護神として、津軽の開拓の神として、地元の人々の祖霊の鎮まるところとして、親しまれてきた。なお神社の参道は岩木山の登山道の1つとなっていることでも知られており、この神社の奥宮は岩木山の山頂付近にある。社殿は、神仏習合の時代の名残りをとどめ、鎌倉時代以後の密教寺院の構造がみられる中に、桃山時代の様式を思わせる色とりどりの絵様彫刻がみられる。
そうした外観が日光の東照宮を思わせるとして、「奥日光」と呼ばれるに至った。[祭神]・顕国魂神(うつしくにたまのかみ・大国主神) ・多都比姫神(たつびひめのかみ) ・宇賀能売神(うかのめのかみ) ・大山祇神(おおやまつみのかみ) ・坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと) 以上をまとめて岩木山大神(いわきやまおおかみ)と称する』。土地を開く場合、川と同様に、光を降ろして山を本来の姿に戻すことが重要になります。岩木山神社には岩木山の麓の里宮と山頂の奥宮があります。
岩木山神社の宮司・須藤典子、里宮所在地(青森県弘前市百沢寺沢27)、奥宮所在地(青森県弘前市・岩木山山頂)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろしました。「半島か中国」「いいです」「いいです」と伝えられました。最後に岩木山が本来の姿になるよう意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。名峰・岩木山を擁する弘前市は、自然豊かな大きな光の場所である故に、深い闇の地に変えられてきました。支配層の松利権の闇の仕組が終わり、弘前の地が本来の光の地に蘇ることを願っています。(おわり)