南洲翁(西郷隆盛)終焉之地


鹿児島県は、桜島などの火山・マグマの「火」と河川や湧水の「水」のある場所であり、本来は非常に大きな光の場所です。大きな光の場所には、多くの精霊がいます。本来の精霊は目に見えない光の粒子です。目に見えない光の粒子の精霊が松取りによって闇に反転します。闇の精霊は闇のエネルギーの源流です。多くの精霊がいる光の場所程、松取りによって精霊が闇に変わることで、深い闇の場所になります。鹿児島、福島、長崎、北海道などの大きな光の地を闇に変えることで、日本を深い闇にするための闇のエネルギーを供給することが出来るのです。

 

大きな光である薩摩の地・鹿児島を闇にするために、松取りのカモフラージュである鉄砲やキリスト教が伝えられました。江戸時代の薩摩の支配者である、薩摩藩主・島津家は、重要な闇の役割を担ってきました。その証が島津家の家紋の丸十です。《金春アヌンナキが憑いた工作員の集団ストーカー被害者の会の押越清悦と元警察官の仙波敏郎・大河原宗平》には、『薩摩藩主・島津家の家紋は「丸十」であり、戦わせて金を得ることを暗示しています。丸は、金や支配を意味します。十字は戦わせることや封印を示唆します。

 

薩摩は江戸時代から日本の支配層の闇の中心であり、工作の地です』と記されています。薩摩藩主・島津家の家紋「丸十」は、戦わせて金の利益を得るという八咫烏の同和派が成すべき闇の役割を意味しているのです。日本各地の大名家の家紋には、役割についてのヒントが秘められています。徳川幕府を中心として鎖国政策を講じていた江戸時代に、日本は支配層・八咫烏の支配の基礎がつくられました。そして、明治維新によって新政府がつくられより深いエゴの闇の建屋がつくられたのです。その中心が薩摩藩と長州藩の薩長です。

 

薩摩藩は八咫烏鶴派(欧州・中国・ロスチャイルド派)であり、長州藩は八咫烏亀派(米国・朝鮮・ロックフェラー派)の役割です。2つの鶴亀の勢力の上に戦わせて利益を得る同和派の勢力があります。薩長の上層部が同和派の勢力となっています。同和派の中心と見ているのが高知の土佐藩です。三菱グループの創業者の岩崎弥太郎が土佐出身であることからも分かります。闇の基礎をつくった薩摩藩の工作員が薩摩藩士です。最も有名な薩摩藩士と言えば、多くの人は「西郷隆盛」と「大久保利通」を挙げるでしょう。

 

明治時代に日本の深い暗闇を構築したのは、裏の支配の役割の西郷隆盛と表の支配の役割の大久保利通なのです。《西郷隆盛と大久保利通が決別した本当の理由》には、西郷隆盛が盟友の大久保利通と袂を分かつことになった征韓論が原因の明治6年の政変について言及されています。『明治6(1873)1023日、西郷隆盛は胸の痛みを理由に参議(当時の政府首脳が務めていた役職)・陸軍大将・近衛都督(天皇直轄軍の司令官)を辞し、さらに位階の返上も申し出た。このとき、参議と近衛都督の辞職は認められたが、陸軍大将と位階については許されなかった。

 

このとき、西郷と同じ参議の板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平といった政府首脳、さらには征韓・遣韓派や西郷を慕う政治家・軍人・官僚が600人余りが辞任する事態となった。この一大政変は「明治六年政変」と呼ばれ、幕末から志を共にしてきた西郷と大久保利通はたもとを分かった』と記されいます。《何が西郷と大久保の袂を分かつことになったのか》には、主な農民一揆・士族の反乱の地図が掲載されています。1873(明治6)徴兵反対一揆から1877(明治10)西南戦争までの反乱・内戦の年と場所を示した日本地図が掲載されています。

 

11件にも及ぶ反乱・内戦は、支配層の松取りの目的で行われた工作です。反乱・内戦を起こすきっかけにするために、西郷隆盛と大久保利通の表面上の対立関係になったのです。支配層の松利権という裏の金儲けの視点を入れて、大局的に見れば、西郷隆盛と大久保利通が袂を分かったのは意図的だったことが理解できます。これは、徳川幕府軍と明治新政府軍の戦いである戊辰戦争も同じ工作です。まさに、薩摩藩の藩主・島津家の丸十の意味である戦わせて利益を得る工作を実践してきたと言えます。

 

また、《奄美大島の黒糖地獄から繋がった西郷隆盛のロシア生存説》にありますが、西南戦争で自害したとされる西郷隆盛は、実は偽装死をつかって生延びたと見ています。それは、裏に回って裏の支配の役割を担うためです。一方の大久保利通は、何をしたのかを追究していくと、1人の薩摩藩士の重要人物に行き着きます。その人物が「日本警察の父」とも言われる「川路利良(かわじとしよし)」です。wikiによると『川路利良(1834-1879)は、薩摩国日置郡鹿児島近在比志島村(現・鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区)出身の警察官・陸軍軍人。

 

幕末から明治初期の薩摩藩士、内務官僚。階級は大警視(後に旧警視長を経て現在の警視総監)、陸軍少将(臨時)。位階は正五位。勲等は勲二等。初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した事実上日本の警察の創設者にして「日本警察の父」とも言われている。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を率いて抜刀隊を指揮して西郷軍に大きな打撃を与えた』と記されています。wikiには、『(川路利良は)内務卿となった大久保利通から厚い信任を受け、不平士族が喰違の変、佐賀の乱などを起こすと密偵を用いて動向を探った』とあります。

 

また、《川路利良|近代日本人の肖像》には、『内務卿大久保利通のもとで警察機構の確立に取り組んだ』と記されています。川路利良は、大久保利通の配下で警察機構をつくり、自らが初代・警視総監の地位に就任したのです。実は、警視庁初代警視総監・川路利良は、火葬場が絡む松利権の仕組も構築してきたと感じます。《東京23区の火葬場6箇所を持つ東京博善の創業者・木村荘平と力を貸した初代警視総監・川路利良》には、『東京博善の創業者・木村荘平が屠牛場を経営し、牛鍋屋「いろは」で成功します。

 

そこに力を貸したのが、警視庁初代警視総監・川路利良です。「火葬場」「屠牛場」「警視庁(警察)」が繋がっているように思えます。明治元(1868)年の鳥羽・伏見の戦いは「戊辰戦争」の初戦です。幕府軍と新政府軍の戦いである「戊辰戦争」は、一般的な戦争と同様に、裏の目的が松取り(松果体収穫)です。鳥羽・伏見の戦いで官軍の御用商人として活躍したという木村荘平は、松取りの裏の仕事に関わっていたと見ています』と記されています。内務卿の大久保利通-初代警視総監・川路利良のラインで、現代の遺骨ダイヤモンドにも繋がる火葬場が絡む松システムを構築してきたのです。

 

火葬場が絡む松システムの客観的証が日本の火葬率です。日本の火葬率は、ほぼ100%であり、群を抜いて世界中で最も高いのです。《東京博善の筆頭株主になった廣済堂創業者で黒幕の児玉誉士夫らと人脈を築いたフィクサー櫻井義晃》には、『日本では火葬率がほぼ100%となっています。中国の火葬率約67%、韓国の火葬率49%、仏国の火葬率30%、英国の火葬率73%、米国の火葬率40%です。日本の火葬率は、同じアジアの国と比較しても圧倒的に高いのです。これは、どうしてでしょうか。日本では、遺体からの松取りの仕組が構築されているからだと推測しています。

 

火葬は遺体の松取り(松果体収穫)の証拠を消すためなのです』と記されています。《ハワイ先住民の遺骨でダイヤモンドをつくったアヌンナキと最初にダイヤモンド合成に成功した米国のGE》には、遺骨を原料にして合成ダイヤモンドを製造する技術を開発した米国のGEについて言及しています。火葬の裏には、臓器売買の闇も絡んでおり、松システムを含めた遺体を金に換える仕組が構築されてきたと見ています。内務卿・大久保利通ー初代警視総監・川路利良の薩摩藩士ラインは、支配層の松利権において、重要な闇の役割を成してきたのです。(つづく)