上野公園の西郷隆盛像についての情報をネットで調べていきました。西郷隆盛像-wikiには、東京(上野公園)の西郷銅像の情報が記されています。『【東京(上野公園)の西郷銅像】東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬「ツン」は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲、台座は塚本靖が設計した。1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩藩出身者が中心となって建設計画が始まった。宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。
除幕式は、西郷の死後21年を経た、1898年(明治31年)12月18日に行われた。以後、この像は「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、像の意味を少しずつ変えつつ、東京タワーや西新宿の高層ビル街と並ぶ、東京の象徴的光景となっている。[製作]身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合、遠近法で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。
銅像には西郷の真実の姿が望まれたが、西郷その人を撮影したとされる信頼性のある写真が一枚も残っていなかった。岡崎によると、キヨッソーネのコンテ画を元に西郷の知己・親戚に一々聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている。
実際、生前の西郷に接した東郷平八郎元帥も「上野の銅像なども、制作には大分苦心された様だが、やはり緊張した顔付だし、少しふとり過ぎて居るように思ふ。」と評し、絵画等では西郷の愛嬌や温和が再現しきれないと述べている。上野の西郷像は、西郷の妻・糸子の評言にある散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した。
連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。犬が人体と比べてあまりに小さすぎると批判されたことがあるが、兎狩りに用いる薩摩犬は実際小さく、そのままの比率で作るとバランスが悪いと考えた高村の意向により像の犬は実物より大きめに作られたと考えられている』。wikiの内容で、直ぐに『腰に藁の兎罠をはさんで兎狩り』が引っ掛かりました。「兎(うさぎ)狩り」の「兎」とは子どものことであり、松取り・松利権を暗示しています。
また、wikiにある『西郷その人を撮影したとされる信頼性のある写真が一枚も残っていなかった』という一文も目に留まります。西郷隆盛の有名な写真は本当の西郷隆盛の写真ではないと言われています。《プレシャス》には、『1:教科書に載っている西郷隆盛は、本人ではない?上の写真は、教科書などでおなじみの西郷隆盛の肖像画ですが、そのモデルとなったのは、目元などが弟の西郷従道、口元などは従兄弟の大山
巌。実際に本人を目の前にして描いたものではないと言われています。西郷隆盛の写真が残っていないことから、近親をモデルにしたと考えられます。
しかし、高杉晋作や坂本龍馬など、明治維新よりも前に亡くなった人物の写真は残っているのにも関わらず、明治政府の要職に就いた西郷隆盛の写真が1枚も残っていない、というのは不思議です』と記されています。西郷隆盛の写真が別人をモデルにした肖像画であることも、西郷隆盛そのものが存在していなかった可能性もあります。もう1つ、上野公園の西郷隆盛像の情報の中で気になった点があります。上野公園の西郷隆盛像の制作については、4人が手分けして制作しているのです。高村光雲(西郷隆盛像の製作者)、後藤貞行(西郷隆盛が連れている犬のツンの製作者)、岡崎雪聲(西郷隆盛像の鋳造師)、塚本靖(西郷隆盛像の台座設計者)の4人です。
その他に、上野公園の西郷隆盛像の建設計画者である薩摩藩士の吉井友実がいます。西郷隆盛1人の銅像を制作するのに4人が手分けして関わっています。直感的に、この分業体制も西郷隆盛の真実を追究する上でのヒントだったと思います。計画者を含めて5人の人が西郷隆盛像に関わっており、西郷隆盛という人物が数人の人たちが手分けして行った実績を西郷隆盛という1人の人物が成したものと仕立てた可能性を感じます。歴史上の偉人の中で、支配層・八咫烏が架空人物をつくって仕立てたと見ている人物には、聖徳太子、ナポレオン、ノーベルなどがあります。
本人は実在して数人が手分けして成した実績を1人の手柄として偉人に祭り上げた例としては、空海、大久保利通があります。過去のヒプノセラピーでは、聖徳太子、空海、大久保利通に関して言及されています。大久保利通については、《仲間で手分けして活動した大久保利通》で、『何人もいる。やったこととされていることは1人じゃない』と伝えられました。前述のような英雄・偉人などの有名人をつくることで一般大衆を支配することが容易になります。地球と人を深い暗闇にするためには、架空人物という嘘の人物を生み出すことも支配層にとっては不可欠だったと感じます。
西郷隆盛の架空人物説をネットで調べると《Yahoo!知恵袋》に行き着きました。そこには、『セゴドン(西郷隆盛さん)は実在したんですか?「日本史ミステリー(日テレ)」や「新説日本ミステリー(テレビ東京)」を観ていて思ったのですが・・・。・上野の西郷さんの銅像は実物とまったく違ったとか ・西郷さんの写真がないとか・・・実は西郷さんは実在の人物ではなく、複数の人間が演じた架空の人物ではないのではないかと疑問がわきました・・・』とあり、西郷隆盛が実在人物ではないと感じる人もいました。
西郷隆盛と上野公園の西郷隆盛像の建設計画・製作者5人のワークを行いました。西郷隆盛、吉井友実(建設計画者)、高村光雲(西郷隆盛像の製作者)、後藤貞行(西郷隆盛像が連れている犬のツンの製作者)、岡崎雪聲(西郷隆盛像の鋳造師)、塚本靖(台座設計者)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「写真は偽物」「工作員」「工作員」「工作員」「工作員。金」と伝えられました。重たい人物もいますが、いずれも、八咫烏の工作員だったと捉えています。鹿児島県警の隠蔽問題の真相追及から始まった当該シリーズ記事は、最終的に西郷隆盛という英雄の真相追及に至りました。
西郷隆盛の真実は、日本における薩摩藩(現・鹿児島県)の支配層の闇がいかに深くて大きいのかを現わしています。鹿児島県警本部長・野川明輝の背広の左胸に付けられたブルーリボンバッチは、鹿児島県の支配層が北朝鮮拉致被害問題や北朝鮮工作に深く関与しているヒントだと理解します。日本はもとより、地球の暗闇のラスボス的存在の北朝鮮の隠された闇が明らかになる時、ビックリ箱が開くように地球の闇が終焉となると予測しています。北朝鮮の最後の闇について別途、追究する予定です。もう、その時が近づいています。
今回の西郷隆盛の件から分かることは、私を含めて多くの人たちが、学校で教わった事の嘘や常識という嘘に騙されて来たということです。人は騙されないと、大きな光になるための深い闇を経験できないのです。しかし、もう暗闇を終える時に来ています。これからの時代は、感覚を使って真実を探求しながら真偽を見極められることが重要です。今回、焦点を当てた鹿児島の地は、個人的な体の痛みのサインからワークに至る回数が断トツに多い場所です。となると、どうして鹿児島なのか、という疑問が浮かびます。
日本列島は巨大な龍体です。鹿児島の地の薩摩半島と大隅半島が日本列島の巨大龍の長足にあたります。人も両手、両足を縛られると完全に不自由になり封じられます。日本列島の巨大龍も同じです。巨大龍の両手である能登半島と房総半島、両足である薩摩半島と大隅半島が大きな闇で固められると巨大龍は動けなくなります。巨大龍が封印されて日本が暗闇になったのです。それ故に、日本を深い暗闇にするために、能登半島・房総半島・薩摩半島・大隅半島に重くて大きな闇が置かれてきました。
今年1月1日起きた能登半島地震は、日本列島の巨大龍が自由になるための幕開けだと感じます。今後、巨大龍が完全に自由になるために、手足が動いてきます。巨大龍の両足にあたる鹿児島の地は、日本が深い暗闇を終えて輝く光に向かうために非常に重要です。鹿児島の隠された闇が表に出て多くの人が知る必要があります。そのきっかけが、鹿児島県警の隠蔽問題だと感じます。「火」と「水」が共存する鹿児島の地が、深くて大きな闇の役割を終えて、本来の輝く光の地に変わることを願っています。(おわり)