史跡佐渡金山_-_panoramio


新潟県佐渡市の調査とワークの対象として、まず、観光名所となっている「佐渡金山」に着目しました。佐渡金山の情報はwikiに記されています。『佐渡金山は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称である。なかでも相川金銀山(あいかわきんぎんざん)の規模が特に大きく、単に「佐渡金山」という場合、相川のものを指す場合もある。このほか「佐渡鉱山」または「相川鉱山」の名称も用いられる。[概要]佐渡島には4つの主要な金銀山を含む多くの鉱山が存在が確認されている。

 

なかでも相川は規模が大きく、国の史跡や重要文化財に指定、または重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っている。そのこともあり、現在では佐渡における観光の拠点ともなっている。佐渡島内鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。[歴史]〈前史〉天正17(1589)に上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となる。相川金銀山は16世紀末に開発が始まったと考えられており、戦国時代には相川の金脈は未発見であった。

 

そのため戦国大名の上杉謙信がかかわった記録はない。今昔物語集の成立年代と推定される11世紀後半には少なくとも砂金等の形で佐渡で金が産出することは知られていたようである。〈江戸時代〉慶長6(1601)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん・金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。特に17世紀前半に多く産出された。江戸時代における最盛期は江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある。

 

当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。しかし江戸中期以降佐渡鉱山は衰退していった。

 

1690年には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった。江戸時代後期の1770年頃からは江戸や大阪などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。

 

水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者はこの佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足の収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた』。江戸時代の佐渡金山では、無宿人の過酷な強制労働があり、実質的に裏の松取りに繋がっていたと感じます。支配層は、表では金銀を採掘し、裏では松取りによって、巨額な金を得ていたのです。

 

wikiには、『現在は三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡が運営しており「史跡佐渡金山」として一般公開されるとともに「世界遺産」への登録を目指している』とあります。観光名所の佐渡金山の管理運営会社は、「株式会社ゴールデン佐渡」です。公式サイトには、㈱ゴールデン佐渡の会社概要が記載されています。『商号:株式会社ゴールデン佐渡 設立:昭和45(1970)4月 本社:新潟県佐渡市下相川1305番地(史跡佐渡金山内) 資本金:5,000万円 株主:三菱マテリアル株式会社 連結子会社(100) 従業員数:夏季74名、冬期45名』。

 

読売新聞の記事によると、㈱ゴールデン佐渡の社長は、河野雅利です。㈱ゴールデン佐渡の社長・河野雅利本社所在地(新潟県佐渡市下相川1305番地(史跡佐渡金山内))に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。また、㈱ゴールデン佐渡には、営業施設(尾去沢(おさりざわ)鉱山)と関連施設(土肥金山)があります。史跡 尾去沢鉱山の所在地(秋田県鹿角市尾去沢字獅子沢13-5)と関連施設の土肥金山の所在地(静岡県伊豆市土肥2726)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと共に「いいです」と伝えられました。

 

wikiには「戦時中の朝鮮人の労働」の項目があり、佐渡金山では、実質的に朝鮮人の強制労働が行われていたことが示唆されています。『日中戦争が激化する中の19397月に日本政府は朝鮮人男性を日本国内の鉱山、炭坑、土木の三分野に限定して労働者として動員することを決定した。当初は各企業による「募集」の形式を取っていたが、19427月から「労務協会斡旋」に変更され、19449月から「徴用」によった。佐渡金山を経営する三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル株式会社)佐渡鉱業所も当初は忠清南道で募集をかけている。

 

当時朝鮮南部は大干害で疲弊しており生活難に陥った農民が大量に発生していたので募集に応じる者は多かった』。《多くの朝鮮人労働者が動員された天理御座所の地下壕建設》や《在日朝鮮人の現場工作員の歴史とヒントが置かれた川口市の鋳物工場が舞台の映画「キューポラのある街」》などの記事にありますが、戦前戦中、日本における地下壕や道路の建設、炭鉱鉱山など作業で朝鮮人の強制労働が行われていました。朝鮮人を犠牲にした秘密裏の松取りは、日本の支配層・八咫烏の松利権という裏の金儲けとなりました。

 

そして、この朝鮮人を犠牲にした支配層の松利権の闇が、戦後日本の大きなカルマの1つになったと捉えています。㈱ゴールデン佐渡の親会社は「三菱マテリアル㈱」です。三菱マテリアル株式会社は、東京都千代田区丸の内に本社を置く、三菱グループの大手非鉄金属メーカーであり、伸銅品で日本国内シェアトップです。《北海道の南大夕張炭鉱など炭鉱・鉱山に隠された松利権の闇から不祥事が続発してきた「三菱マテリアル」》で、三菱マテリアルの会長・社長のワークを行っており、「八咫烏」「DS」と伝えられました。(つづく)