320px-Kemari_Matsuri_at_Tanzan_Shrine_2


卓球やサッカーなどスポーツの強豪校である青森山田高校の具体的な指導者を追跡していきました。wikiには、青森山田高校卓球部の情報があります。『青森山田高校卓球部は総監督を吉田安夫が務め、全国高等学校総合体育大会卓球競技大会で男子団体が17回、女子団体が4回全国優勝するなどの実績を残した。この他、国民体育大会卓球競技、全国高等学校選抜卓球大会、全日本卓球選手権大会でも実績を残した。出身者には水谷隼や松平健太、福原愛、丹羽孝希などがいる。2015年度の及川瑞基、三部航平らの代をもって強化が休止された』。

 

全国大会で男子団体が17回、女子団体が4回優勝していますが、尋常ではない強さです。青森山田高校の卓球部の黄金期を生んだのが総監督の吉田安夫です。吉田安夫(よしだやすお)の経歴はwikiに記載されています。『吉田安夫は卓球指導者。1933(昭和8)120日埼玉県生まれ。 埼玉県立熊谷商業高等学校、埼玉工業大学深谷高等学校、青森山田高等学校の卓球部で監督を務め、インターハイ優勝を何度も果たし全国優勝回数は100回以上を数える。渡辺武弘、斎藤清、岩崎清信、渋谷浩、吉田海偉、水谷隼、松平健太、丹羽孝希など全日本代表選手も多く輩出している。

 

20061月に行われた第6回日本卓球人賞の指導者賞を受賞している。青森山田高等学校で総監督などを歴任。 2019711日、心不全にて死去』。吉田安夫が勤務した埼玉県熊谷市や深谷市は大事な光の地です。特に深谷市は渋沢栄一の生地です。《血液から作られる青色染料・プルシアンブルーの裏にある松取りの闇と部落解放運動家のユニクロ創業者》にありますが、埼玉県深谷市血洗島にある渋沢栄一の生家では、染料の原料となる藍玉をつくっていました。しかし、その裏では、松の裏仕事を成していたと推察しています。

 

多く存在する光の精霊が闇に変えられた場所だと捉えています。吉田安夫の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「悪魔崇拝系」と伝えられました。闇の精霊が魔物になるために、悪魔崇拝は、闇の精霊が関与していると捉えています。やはり闇の精霊を操る術師だった可能性を感じます。ちなみに、「吉田」姓は、藤原氏全体の氏神の吉田神社に通じる八咫烏の典型的な苗字です。青森山田高校のサッカー部の情報はwikiに記載されています。『サッカー部は、1970年に創部。1989年に田口光久が監督に就任した頃から強化が始まった。

 

1991年には全国高等学校サッカー選手権大会(選手権)と全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会(インターハイ)の全国大会に初出場を果たした。1995年、当時25歳の黒田剛が田口の後任としてサッカー部の監督に就任すると、雪国である青森のハンデを逆手に取り、雪の上での練習(雪中サッカー)と筋力トレーニングを兼ねた雪かきを練習に取り入れて、強化を進め、1997年以降の選手権には毎年出場する全国高校サッカー選手権の強豪校となった。2005年シーズンには、第40回全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝している。

 

高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグでは、トップチームが最上位カテゴリのプレミアリーグに在籍するほか、東北地方の強豪校が戦うプリンスリーグ東北にセカンドチームが参戦している。2016年シーズンには、高円宮杯U-18サッカーリーグ2016 プレミアリーグと第95回全国高等学校サッカー選手権大会で共に優勝、ユース世代二冠を達成。2021年シーズンには全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会、高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ、全国高等学校サッカー選手権大会を優勝し、ユース世代三冠を達成している。

 

また中学校も2012年に全国大会で優勝し、2014年から2017年にかけて4連覇を達成している』。1989年にサッカー部の強化が始まった時の監督・田口光久(たぐちみつひさ)1995年に田口光久の後任として監督に就任し黄金時代を築いた黒田剛(くろだごう)2人を対象にしました。強化が開始時の監督だった田口光久の経歴はwikiにあります。『田口光久(1955-2019)は、秋田県河辺郡河辺町赤平(現・秋田市河辺)出身。元サッカー日本代表。ポジションはGK。[経歴・人物]秋田市立秋田商業高等学校卒業後の1973年に三菱重工サッカー部(現・浦和レッドダイヤモンズ)に入部。

 

同年には日本ユース代表としてAFCユース選手権準優勝に貢献、翌1974年にもユース代表に選出され、同大会に出場した。所属する三菱では、正ゴールキーパーに横山謙三がいたため出場機会に恵まれなかったが、3年目の1975年にポジションを奪取、翌1976年には日本代表に選出され、代表でも正ゴールキーパーの座を確保するようになり、国際Aマッチ59試合に出場。また、1982年から1984年まで主将を務め、低迷期の日本サッカーを支えた。引退後は指導者の道へ進み、秋田経法大附属高校や青森山田高校のサッカー部監督としてユース年代の育成に努めた。

 

また、その体型からバラエティ番組に出演するようになり、1991年から1993年頃にかけて、日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて」に出演し、PK対決コーナーで木梨憲武のパートナーとしてゴールキーパーを務めていた。その後はJリーグ解説者や国際学院高等学校サッカー部総監督として活躍した。20191112日午前32分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去。64歳没』。田口光久の出生地の秋田県河辺郡河辺町赤平は、「河」と「赤」から水の地がエゴの闇に変えられた場所と読めます。すなわち、光の精霊が人間のエゴで闇の精霊に反転している土地です。

 

また、田口光久は、三菱重工サッカー部に所属していました。三菱重工は、岩崎弥太郎が創業した三菱財閥(現・三菱グループ)の会社です。三菱グループは支配層・八咫烏の中核を成しています。田口光久も経歴から八咫烏の術師の工作員と理解します。田口光久の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。やはり支配層の工作員のようです。ただ、64歳で病死していることが気になります。実は、多くのスポーツの中でもサッカーは八咫烏が直結するスポーツだと見ています。実際に日本サッカー協会のシンボルマークは、三本足のカラスである「八咫烏」です。

 

日本サッカーの源流の蹴鞠と八咫烏を構成する表の藤原氏・裏の秦氏》には、『日本サッカーと八咫烏から蹴鞠にたどり着く。八咫烏の紋章の熊野本宮大社のある熊野は、平安時代の蹴鞠名人の藤原成通が技の奉納に訪れたという。秘密結社の八咫烏は、表の藤原氏と裏の秦氏から成る。天皇中心の官僚体制を構築した藤原不比等と神社寺院の松利権網という裏の支配体制を構築した秦河勝が象徴となる』とあります。八咫烏は術師の秘密結社であることから八咫烏に直結するサッカーは、精霊の闇を操り遠隔操作を使う典型的なスポーツ競技と言えます。

 

また、日本サッカーの起源とされる「蹴鞠」は貴族が嗜むことから、ボールを操り楽しむという感覚が伝わってきて、表の世界を八咫烏が裏で操っている姿を現していると感じます。サッカーで興味深いことがあります。1つは、サッカーボールです。wikiには『一般的にイメージされる切頂二十面体のサッカーボール。黒い五角形のパネル12枚と白い六角形のパネル20枚で構成される』とあります。サッカーボールは、五芒星と六芒星で構成されているのです。五芒星と六芒星の説明は《「6で知る」のヒントが導く「安倍晋三の背後」と「統一教会の血分け・6マリア」からの子供の松取り工作の闇》に記されています。

 

これまでのワークから「6」は「六芒星」に由来する「隠す闇(工作)」と捉えています。「五芒星」は、生贄など肉体に由来する命や苦痛の闇だと捉えています。支配層の松取りの闇は、「六芒星」と「五芒星」の2つの闇の組合せであり、地球の深い闇がつくられてきました。また、五芒星の象徴が八咫烏の鶴派で、六芒星の象徴が八咫烏の亀派です。サッカーボールそのものにも、八咫烏のヒントが置かれているのです。もう1つは、近代サッカーの起源は英国であるというイングランド説です。

 

LSIN HOKKAIDO》には、『イングランド説は今までに最も有力とされてきた説である。起源は8世紀頃、戦争で勝利すると敵国の将軍の首を切り取り、その首を蹴って勝利を祝ったことと言われている。それが、国内の一般大衆にもモッブゲームという「祭り」として形を変え、広まった。これは、王妃が将軍の首に見立てた球(ボール)を城から投げ、民衆が一斉に隣町の門(ゴール)へ競い合って蹴りあうものだった』と記されています。サッカーの起源は、日本も世界も、支配層の重たい闇に関係しているようです。(つづく)