Sendai_skyline_and_Hirose_River


2024
412()、右上の奥歯に軽い痛みと違和感を覚えました。ワークの場所を教えるサインでした。場所はどこかを内観すると「仙台市」だと感じました。宮城県仙台市には、2014316()から5日間、宮城県と福島県のエネルギーワークを行う東北巡礼の旅で訪れていました。その際に、大崎八幡宮で光を降ろすと、白龍が解き放たれ龍の玉が解放されました。また、龍宝寺では一対の特徴的な木から黒龍が解放されました。その際のワークの様子は《宮城 大崎八幡宮 ~巡礼の旅(51)~》に記しています。

 

さらに、《宮城 弘法大師堂 ~巡礼の旅(52)~》にありますが、鷲巣山文殊堂で光を降ろすと三十三観音のエネルギー体が昇天しました。弘法大師堂では、弘法大師のエネルギー体の要請に応えて石仏のエネルギー体たちが光に還っていきました。201911月上旬には、宮城県多賀城市にある多賀城の遠隔ワークを行っており、カタカムナの術の渦巻が置かれていたことが分かっています。カタカムナは光の精霊を封じる八咫烏の術です。闇の精霊を集団にして渦巻にすることで人の遠隔操作や土地の封印に使われてきました。

 

「多賀城」は、「多賀城柵」とも呼ばれ、宮城県多賀城市にあった古代の軍事拠点です。東北には「蝦夷(えみし)」という先住民がいました。「多賀城」は、「蝦夷」を制圧するためのヤマト王権の支配層の軍事拠点でもあります。ヤマト王権の渡来人が先住民の松取りを行うための東北地方の拠点が多賀城だったのです。個人的には、仙台市は、暗い印象があります。大きな光の地ゆえに深い闇の地に変えられていると感じています。仙台市は東北の中核都市であり、伊達政宗を藩主とする伊達藩の拠点があった場所です。

 

たたら製鉄と隠れキリシタンが松果体摂取で結ばれた大籠キリシタン殉教公園の歴史》にありますが、岩手県一関市にある「大籠キリシタン殉教公園」のワークからキリスト教とたたら製鉄を組合わせて、先住民の松取り工作が成されていたと見ています。先住民を松取りした遺体をたたら製鉄の溶鉱炉で焼却したのです。遺体の証拠隠滅のための工作を成しいます。先住民が暮らしていた地である故に、大きな光の場所が松取りによって深い闇の地に変えられてきました。江戸時代の伊達藩が支配していた仙台の地は、現在も支配層の松取りによる裏の金儲けとなる松利権の闇が引継がれています。

 

今回は、以前の寺社中心の土地の闇の解除・統合のエネルギーワーくではなく、支配層の権力者のエゴ・金の闇に由来する重い闇の解除・統合を目的にして調査とワークを進めることにしました。仙台市の情報はwikiに記されています。『仙台市は、宮城県の中部に位置する市。宮城県の県庁所在地であり、東北地方で唯一の政令指定都市。まちづくりの理念は「“The Greenest City” SENDAI」であり、5つの行政区がある。人口は約109万人。人口や経済規模など多くの分野で東北地方最大の都市でもある。一人あたりのGDPは政令市の中では高く4位である。

 

[概要]仙台市都心部周囲には広瀬川や青葉山などの自然があり、また都心部にも街路樹などの緑が多いことから、「杜の都」との雅称を持つ。仙台市は「学都仙台」「楽都仙台」などのキャッチコピーも用いている。明治になると、東京と青森のほぼ中間(双方からともに約350km)に位置する当地に東北鎮台(→仙台鎮台2師団)が設置されて陸軍施設が集まり、「軍都」の側面を持ち始めた。1878(明治11)に仙台区となり、1882(明治15)に木道社が日本初の人車軌道を仙台 - 蒲生間に開業。1887(明治20)には旧制二高が創立、日本鉄道(JR東北本線)仙台駅も設置された。

 

同駅の設置により、木道社は廃業して蒲生は中継地としての地位を失い、船運中心の江戸時代に発展した石巻や塩竈から、鉄道が集積する仙台に商権が移って、現在に至る「商都」の側面を手に入れた。1889(明治22)41日に市制施行。日露戦争を機に1907(明治40)には東北帝国大学(現・東北大学)が創立し、「学都」としての地位を確立。また、同年から大正、昭和初期にかけて「五大事業」を推進して近代都市へと脱皮し、「森の都」や「杜の都」と呼ばれるようになった』。仙台藩の初代藩主は、伊達政宗です。伊達政宗の情報はwikiに記されています。

 

『伊達政宗は、出羽国(山形県)と陸奥国(宮城県・福島県)の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては、仙台藩(宮城県・岩手県南部)の初代藩主である。永禄1083(156795)、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗と、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸。生誕地は通説では米沢城であるが館山城とする学説もある』。伊達政宗の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。仙台藩には大きな松利権と金山があり、表裏で豊かな財政だったと感じます。

 

仙台市の支配層のワーク対象として、市長・市議会議長・観光協会会長・商工会議所会頭をベースに選びました。初代仙台市長は、遠藤庸治(えんどう ようじ)です。遠藤庸治の経歴はwikiに記載されています。『遠藤庸治(1849-1918)は、大正時代から大正時代にかけて活動した官吏であり政治家である。初代仙台市長や、衆議院議員などを歴任した。[人物]江戸時代末期の仙台に生まれた。仙台藩校養賢堂に学び、幕末には戊辰戦争に参加した。代言人(弁護士)、宮城県会議員、同議長を経て、1889(明治22)、初代・仙台市長に就任した。

 

同職を2期務めた後、1903(明治36)に政友会・衆議院議員に転じた。さらに宮城県農工銀行の頭取を務めた後、1910(明治43)、仙台市長職に復し、1期務めて引退した。仙台市長在任中には、五大事業(市区整備、市営電気、市街電車、上下水道、公園緑地整備)を訴えたほか、1896(明治29)には仙台市徒弟実業学校(後の仙台市立仙台工業高等学校)や、仙台市簡易商業学校(後の仙台商業高等学校)を開校させた。また、宮城県内では、植林、養蚕、養豚を振興した。1907(明治40)には仙台市会議長を務めた。遠藤は仙台市内で枝垂桜の一種、八重紅枝垂を植え増やした。

 

このことから、この櫻は「遠藤櫻」とも呼ばれるようにもなった』。遠藤庸治の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。遠藤庸治も純粋な闇の役割を担っていたようです。仙台市長は、郡和子(こおりかずこ・2期目)です。経歴はwikiにあります。『郡和子(1957-)は、宮城県名取郡秋保町(現・仙台市太白区)出身の政治家、元アナウンサー。仙台市長(1819)。東北放送株式会社に入社し、報道制作局部長を務める。政治家としては衆議院議員(4)、衆議院厚生労働委員会理事、衆議院消費者問題に関する特別委員会理事、内閣府大臣政務官、復興大臣政務官、民主党筆頭副幹事長などを歴任した。

 

[来歴]仙台市立長町小学校を経て仙台市立長町中学校に入学。秋保町立秋保中学校(現在の仙台市立秋保中学校)に転校して卒業。宮城県第二女子高等学校(現在の宮城県仙台二華高等学校)を経て東北学院大学経済学部経済学科を卒業後、19794月に東北放送にアナウンサーとして入社。2005年、解説委員や報道制作局の部長を務める。所属政党:(民主党民進党(菅直人G・赤松G)→無所属』。仙台市長・郡和子に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ。ゴム」と伝えられました。既に、エゴ・金の闇の役割を担う金春アヌンナキが憑いた替え玉に変わっているようです。(つづく)