葦毛崎展望台_-_panoramio_(1)


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月下旬、かなり頻繁に「八戸」のワードを目にしており、調査とワークの必要性を感じました。八戸は闇が深い場所だと分かっていました。過去のヒプノセラピーでも「八戸は闇が深い。人が怖れて、怖れの闇に繋がっている。東北の中の八戸に深く固まっている。硬く固まって外から入れない。人々は気づけない。この地で静かに光を流す」と伝えられていました。闇が深い場所は、人も土地も変化しないように固められています。闇が深い理由は、本来、大きな光の土地だからです。

 

目に見えない光の粒子である精霊が多く存在する場所は、松取りによって精霊が闇に変えられて闇が深い地になるのです。湖沼・河川・山などがある地は、光の地底が存在しており、沢山の光の精霊が存在しています。八戸を含む東北の三陸には北上山地があり重要な光の地底があるのです。青森県八戸市は、古くから八咫烏の拠点であり南部氏の支配地でした。蝦夷の先住民などの松取りが成されてきました。また、戦前戦中は、八戸に多くの地下壕が掘られ、朝鮮人や兵士などの労働者を犠牲にした松取りが行われたと見ています。

 

日本軍によって秘密裏に建造された50箇所の地下壕から成る八戸要塞》には、青森の太平洋側の八戸市で、太平洋戦争末期の1944(昭和19)から1945(昭和20)にかけて、本土決戦用に造営された「八戸要塞」として約50箇所の地下壕が点在していたことを記しています。98万人の人たちが動員されて工事が行われ、未使用のまま終戦を迎えました。日本軍による松取りで光の地であった八戸の地が闇に変えられたのです。八咫烏の仕事を担っていた日本軍は、裏の金儲けと光の地を闇に変える闇の役割を担っていました。

 

八戸市の情報はwikiに記されています。『八戸市は、青森県東部にある市。太平洋に面する。中核市に指定されており、県庁所在地である青森市や県内人口3位の弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成する。1929(昭和4)市制施行。[概要]八戸都市圏は約33万人の人口を擁する。三戸郡を包含する八戸圏域連携中枢都市圏でもあり、三八地域県民局が設置されている。2002(平成14)12月には東北新幹線が八戸駅まで延伸されている。八戸港は工業港、フェリー港、漁港を兼ねている。商圏は青森県東部や岩手県北部を包摂する。八戸藩が置かれた城下町でもある。

 

伝統芸能であるえんぶり()および八戸三社大祭、騎馬打毬はいずれも国の重要無形民俗文化財に指定されている。伝統工芸品には八幡馬、八戸焼、南部姫毬などが、郷土料理には南部煎餅、八戸せんべい汁、いちご煮など、駅弁は「八戸小唄寿司」、特産品には市川いちご、糠塚きゅうりなどがある。お盆には「背中あて」を食べる慣習が根付いている。温泉・銭湯も歴史的に多く存在する。スケート、アイスホッケーが盛んで、氷都八戸の異名を持つ。実業団体やジュニアチーム、女子チーム、素人アイスホッケーを含め加盟登録数は60チームを数える。B-1グランプリ発祥の地でもある。

 

「八戸」の名称は、岩手県北・青森県南西部一帯に古くから存在している数に「戸」のつく地名がもととなっている。「戸」自体の由来は牧場の番号や駐屯地の番号など諸説ある。[歴史]〈古代〉縄文時代の是川遺跡や風張遺跡がある。風張遺跡からは縄文時代後期の米粒が出土している。風張から出土した合掌土偶は国宝となっているほか、是川からも数々の工芸品が出土している。〈中世〉1191(建久2)、甲斐国の南部氏が北東北一帯を源頼朝から賜ったとされている。南部氏が実際に北東北に移ってきたのは南北朝時代である。

 

1334(建武元年)、南部師行が根城を築き、根城南部氏(遠野南部氏)の祖となった。根城南部氏は1627(寛永4)、三戸南部氏(後の盛岡南部氏)の命により遠野に居城を移した。〈近世〉転機となったのは江戸時代前期の1664(寛文4)である。南部重直が世継ぎを決めずに亡くなったため、盛岡藩は御家断絶の危機を迎えた。江戸幕府は盛岡藩10万石を八戸2万石と盛岡8万石に分け、八戸南部氏の祖となる南部直房により八戸城が築かれた。これが八戸藩の始まりである。八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、現在の岩手県久慈市までが八戸藩だった』。

 

八戸市の支配層について調査とワークを行いました。ワーク対象の八戸の支配層として、市長・市議会議長・観光協会会長・商工会議所会頭をベースに選びました。八戸市の初代市長は、近藤喜衛(こんどうひろえ)です。経歴はwikiに掲載されています。『近藤喜衛(1871-1961)は、青森県八戸市出身の政治家。青森県八戸市の初代市長。[来歴・人物]1871(明治4)に旧八戸藩士の家に生まれる。八戸高等小学校から研成学舎に入り、卒業後は小学校の教員となり、その後は教員をしながら東京専門学校に通った。帰郷後に八戸の小学校の校長となった。

 

1889(明治22)に八戸青年会に入会。1894(明治27)に八戸青年会を脱会し、政治団体「北辰会」を結成した。1907(明治40)5月、八戸町助役となり、間もなく町長に就任したが、9月に停職となった。1908(明治41)に地元紙「奥南新報」を創刊した。当時地元で土曜会と勢力を二分した立憲政友会系の公民会(奥南派)の中心人物であった。また、1920(大正9)に八戸郷土研究会が結成された時は発起人の一人となっている。その後下長苗代村長、舘村長、三戸郡会議員、青森県会議員、同参事会員、同議長を歴任した。

 

1929(昭和4)に八戸市が誕生したことにともない、当初元八戸町長だった北村益が初代市長に推されるが北村が辞退し、代わって喜衛が初代八戸市長に就任する。1930(昭和5)に衆議院選挙の違反に問われ、責任をとり辞任した』。八戸市の初代市長・近藤喜衛の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。やはり八戸市の初代市長は八咫烏工作員の役割でした。八戸市の現市長は、熊谷雄一(くまがいゆういち・1期目)です。経歴はwikiにあります。『熊谷雄一(1962-)は、青森県八戸市出身の政治家。青森県八戸市長(1)。八戸市議会議員(1)、青森県議会議員(5)を歴任。

 

[来歴]八戸工業大学第二高等学校卒業、1985年、日本大学法学部政治経済学科を卒業する。2001年、八戸市議会議員に当選、1期途中の2003年、青森県議会議員(八戸市選挙区)に当選し、5期務め、2017年、議長に就任する。2019年、自由民主党青森県連政務調査会長となる。20218月、10月に行われる八戸市長選挙に出馬を表明、現職の小林眞も出馬を表明したため、これまで小林を推していた自民党は分裂状態となり、自主投票となった。選挙の結果、熊谷が小林に33,000票以上の差を付け当選した』。八戸市の現市長・熊谷雄一に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「同和」と伝えられました。(つづく)