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5()、老人ホームに入所する父親が喉に痰が絡んで息苦しいので病院に受診するよう看護師から言われたと妹から連絡がありました。父親は殆ど言葉を出すことができずに話しが出来ない状態になっているといいます。父親の闇の事象はワークの必要性を知らせるサインでした。父親の不調を通して幾度かワークを行ってきましたが、まだ、統合すべき闇があると感じました。昨年111日に父親の老人施設を訪問して以降、故郷の静岡県伊豆の国市を中心に伊豆地方の関連ワークを続けていました。

 

父親の老人施設でも問題が生じて、自治体との連絡を通して、かなり闇が深いと痛感していました。老人施設などの福祉施設は、地域の支配層の松利権と密接に関係しており、サンカ・同和・反社という現場工作の闇が潜んでいる拠点であり、重くて汚いエゴの闇である土着の闇が根づいている場所でもあります。父親と私は、過去世で徳川幕府の伊豆韮山代官・江川家として、支配層の松利権の闇の土台を構築してきたので、闇の仕組を終わらせるためのカルマの解消だとも感じていました。

 

今回の父親の喉に痰が絡んで息苦しい症状の連絡を受けて、直ぐに、伴侶の協力を得てワークを行いました。父親の喉を中心にして闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。「ゴキブリ。IT関係」と伝えられました。経験的に、ゴキブリは、エゴ・金の重たく汚い闇を意味することが分かっています。ちょうど前日の夜、私の部屋にゴキブリが出て、ゴキブリホイホイで捕獲していました。北海道札幌では、本州とは違って、ゴキブリは殆ど目にしません。捕獲したゴキブリのワークを促すサインだったと捉えています。

 

状況的には、IT関係の裏には、サンカ・同和・反社という重たく汚い闇が存在していることを暗示していました。「IT関係」は、IT関係の会社であり、昔、伊豆の国市に存在していた「東京電気」だと直感しました。今回、「東京電気」について調査とワークを行うことにしました。「東京電気」をネットで調べると、現在は、東芝グループの「東芝テック」の名称に変わっていました。「東芝テック(旧・東京電気)」の情報はwikiに記載されています。『東芝テック株式会社は、東京都品川区に本社を置く電機メーカー。

 

東芝グループで社会インフラ事業領域(リテール&プリンティングソリューション)の一角を担っている。東芝グループで唯一東証プライムに上場している。[概要]東芝グループの社会インフラセグメントの子会社であり、リテール&プリンティング事業領域を担っている。東芝グループの略称は「テック」を使用。東芝グループでは、当社以外にも東芝プラントシステム(TPSC)、ニューフレアテクノロジー(NFT)、西芝電機(西芝)の上場企業があった。2019年のこれらの会社の親子上場解消(東芝による完全子会社化)、さらには2023年の東芝の上場廃止により、現在ではグループで唯一の上場企業となっている。

 

会社名の「テック」は、国内リテールソリューション事業で使用しているブランド「TEC(旧社名の東京電気(Tokyo Electric Company)の略称である)に由来する。主要事業は、流通小売業、飲食業などで導入されているPOS(販売時点情報システム)システムを中心とするリテールソリューション事業、主に海外を中心に導入されている複合機を中心とするプリンティングソリューション事業である。かつては、東芝の社内カンパニーである家電機器社(のちに製造部門として東芝家電製造を設立)の東芝ブランドの照明や掃除機、ミキサーなどの小型家電の製造も行っていた。

 

現在は東芝ライフスタイル(TLSC)に分社化されている。[沿革]1919(大正8)2-間宮勝三郎により株式会社間宮堂として設立。現在の大仁事業所に社屋を建設し、金庫、加減算機を製造。1926(大正15)4-国内初の金銭登録機を発売。1928(昭和3)12-藤山愛一郎が間宮堂を買収、資本金200万円で日本金銭登録機株式会社を設立。本格的な金銭登録機の製造の基礎を確立。1935(昭和10)-日本金銭登録機がアメリカNCRと提携し、同社の日本法人となる。1940(昭和15)1-日本金銭登録機、外資排除により東京芝浦電気株式会社(現・東芝)が買収、同社大仁工場となる。

 

1946(昭和21)1-照明器具ではランタン・誘蛾燈、事務機では和文タイプライタを、マツダブランドで製造開始。1950(昭和25)2-東京芝浦電気大仁工場から分離独立し、東京電気器具株式会社を設立。1952(昭和27)12-東京電気器具、東京電気株式会社に社名変更(かつての東芝の旧社名と同名)1962(昭和37)11-東京証券取引所2部上場。1966(昭和41)10-東芝事務機株式会社を吸収合併。1969(昭和44)8-東京証券取引所1部指定替え。1994(平成6)6-テック電子株式会社と合併し、株式会社テックに社名変更。

 

1999(平成11)11-複写機事業を親会社の東芝から譲り受け、照明事業を東芝ライテックに譲渡し、現社名である東芝テックに改称。2007(平成19)6-家電事業を東芝ホームアプライアンス(現在の東芝ライフスタイル)に譲渡。2010(平成22)10-子会社の東芝テックビジネスソリューション株式会社の事業を統合。2011(平成23)3-TOBにより、国際チャート株式会社を連結子会社化。2012(平成24)4-IBMの リテール・ストア・ソリューション事業(POSシステム関連事業)の買収を発表。

 

2017(平成29)3-株式会社TOSEIの業務用クリーニング機器および真空包装機事業を、新設分割で設立された同名の会社に移管した上で、新会社の株式の90%を株式会社キョウデンエリアネットに売却し、関連会社から離れた。12-ナカバヤシ株式会社による株式公開買い付けに応じて国際チャート株式会社の株式を売却し、連結から除外。2018(平成31)2-子会社での不正会計が発覚。62400万円の費用を架空に計上していた。2020(令和2)2-創立70周年を迎える。東芝がデータソリューション事業子会社「東芝データ」を設立。

 

スマートレシート事業と連携し、データソリューション事業を強化。6-代表取締役社長である池田隆之が退任。後任として東芝デジタルソリューションズ(TDSL)の社長であった錦織弘信が就任』。東芝テック(旧・東京電気)の創業者は、間宮勝三郎(まみやかつさぶろう)です。経歴はwikiに記されています。『間宮勝三郎(生年1854-1860年・没年不詳)は、三島市出身の実業家、発明家。()間宮堂(現・日本NCR、東芝テック)創業者。マミヤ光機(現・マミヤ・オーピーおよびマミヤ・デジタル・イメージング)創業者である間宮精一の父親で、将棋棋士間宮純一の祖父に当たる。

 

[経歴]宇多源氏佐々木氏の佐々木神社神主家系間宮家。安政年間、三島で生まれる。藤沢の呉服店木屋に奉公し、のれん分けで大仁に呉服店木屋を開業。店が軌道に乗ると、発明や事業に手を広げる。 生来発明好きで、楠から樟脳を採ったり、三宅島で芋焼酎やイチゴ酒、椿油を製造したかと思うと、北海道に渡ってリンゴ酒を製造した。1919(大正8)には間宮式金庫を発明し、同年株式会社間宮堂を創業。大仁に間宮堂の社屋を建設し、金庫を製造した。長男の間宮精一は「間宮式加減算機」を開発、さらにはそれをベースに1926年日本初のキャッシュレジスター「間宮式金銭登録機」を生みだし、間宮堂で製造販売した。

 

192812月に間宮堂は藤山愛一郎(藤山コンツェルン2代目)の支援を受け日本金銭登録機と社名を変更。間宮精一は技術部門の責任者となるが、同社がアメリカNCRと提携したのを機に退社してマミヤ光機を創業した。木屋呉服店は子息の徳次郎が継承し間宮商店として現在も営業中である』。間宮勝三郎は、呉服商や樟脳を扱っていたことから裏の松の仕事も担っていたと推測します。東芝テックの創業者・間宮勝三郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。やはり八咫烏工作員の役割だったようです。(つづく)