日本最初のナショナルトラスト団体の「鎌倉風致保存会」についての情報は公式サイトに記載されています。『鎌倉風致保存会は、鎌倉の自然の風光と豊かな文化財を後世に伝えることを目的として、1964年(昭和39年)12月に設立された日本最初のナショナルトラスト団体です。現在、鎌倉市内に御谷(おやつ)山林・笹目(ささめ)緑地・十二所果樹園(じゅうにそかじゅえん)・坂井家住宅(さかいけじゅうたく)緑地という4か所の緑地と、坂井家住宅洋館・和館という1棟の建築物を保全のため所有しています。
誕生のきっかけとなったのは、後に「御谷(おやつ)騒動」と呼ばれる市民運動です。1964年は東京オリンピック開催の年で日本中が開発ブームに沸く中、鎌倉の聖域である鶴岡八幡宮後背の山林「御谷」にも宅地造成計画が持ち上がりました。これに対して地元住民を中心に市民や文化人らが反対運動を推進し、当財団を設立するとともに、集まった寄付金で御谷山林1.5haを買収しました。このことから、鎌倉風致保存会は日本最初のナショナルトラスト団体といわれています。
この運動が契機となって、1966年(昭和41年)には「古都保存法」が制定され、鎌倉は乱開発から守られることとなりました。鎌倉風致保存会では所有する4か所(約8ha)の緑地と、鎌倉市内の史跡緑地や寺院の後背林などの保全管理作業「みどりのボランティア」を、市民や鎌倉を愛する皆さんと一緒に行っています。また、所有建物の坂井家住宅(約380㎡)を保全するとともに、鎌倉に住み鎌倉を愛し「御谷騒動」のときペンの力で尽力された作家大佛次郎(おさらぎじろう)さんの茶亭をのこそうと支援しています。
さらに、こうした活動を知ってもらい、後世につなげるために「中学生ボランティア」や「かまくら里山フェスタ」、「家族で栗拾い」、「歴史ウォーク」などいろいろなイベントを開催しています。当会の大きな特徴は、これら緑地保全活動やイベント活動のほとんどが会員のボランティア・スタッフによって担われていることです。鎌倉の風致を守るという熱い思いが、50年以上たった今も受け継がれています』。鎌倉風致保存会は、鶴岡八幡宮後背の山林「御谷」の宅地造成計画が持ち上がったことに対して地元住民を中心に市民や文化人らが反対運動を推進して設立されました。
2つの集団の対立構図をつくるために、工作員である文化人などの有名人が啓蒙して市民を集団にして動員したたことがポイントです。《「パンデミック条約反対デモ」から見える工作員の正体》にもありますが、こうした対立構図をつくり集団にする手法は支配層の常套手段です。ロスチャイルドや八咫烏などの工作組織が使う「戦わせて利益を得る」手口です。大概、純粋な一般市民は騙されてしまいます。公式サイトには、公益財団法人鎌倉風致保存会の役員・評議員名簿(令和5年(2023年)5月31日現在)が掲載されていましたが、現在はリンク切れになっています。
鎌倉風致保存会の理事長理事長(代表理事)、常務理事、3人の理事をワーク対象に選びました。公式サイトの「理事長挨拶」にありますが、鎌倉風致保存会の理事長は兵藤芳朗(元鎌倉市副市長)です。《タウンニュース》には、兵藤芳朗のプロフィールが記載されています。『鎌倉で、祖父の代まで醤油醸造を営むなど老舗の酒屋の次男として生まれた。大学は早稲田大学へ。1、2年の時、ハンセン病施設でボランティアを体験。看護師が献身的に働き、いつもニコニコしていたことが思い出される。海外にも目を向け、インドやネパールに行き、現地の人と交流し、日本とは違う文化を体験。
その後、アメリカを放浪。色んな大学を巡り見分を広めた。大学卒業後、鎌倉市役所へ。大学時代に色々なことを経験し「地元で就職し、地元のために働きたい」と思った。企画畑が長く、市長5代にわたり市政をデザインする総合計画に携わってきた。2009年には副市長となり、2年間、市長を支えた。退職後は福祉法人の立ち上げや理事など現場での活動を続ける。今年6月には鎌倉社会福祉協議会の理事長にも就任』。兵藤芳朗は、鎌倉市副市長の経歴を有する支配層であることが分かります。
また、実家が醤油醸造を営むなど老舗の酒屋だったことから松利権を有していた家系だと見ています。鎌倉風致保存会の理事長(代表理事)・兵藤芳朗(元鎌倉市副市長)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS。天下り」と伝えられました。鎌倉風致保存会の常務理事(業務執行理事)・石山由夫(鎌倉風致保存会事務局長)、理事・岩田晴夫(鎌倉自主探鳥会代表)、理事・村田佳代子(鎌倉市文化協会理事長)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「DS」「反社」「反社」と伝えられました。
また、鎌倉風致保存会の理事・横松佐智子(一級建築士事務所すまい設計工房主宰)、本部所在地(神奈川県鎌倉市扇ガ谷4‐29‐1)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「裏インド」「いいです」と伝えられました。役員は、DSや現場の工作員から構成されているようです。鎌倉風致保存会の看板であり、有力な支援者的存在が作家の大佛次郎です。大佛次郎の経歴はwikiに記載されています。『大佛次郞(おさらぎ じろう・1897年-1973年)は、神奈川県横浜市英町(現・横浜市中区)出身の小説家・作家。本名:野尻清彦(のじりきよひこ)。
「鞍馬天狗」シリーズなど大衆文学の作者として有名なほか、歴史小説、現代小説、ノンフィクション、新作歌舞伎や童話などまでを幅広く手がけた。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。作家の野尻抱影(正英)は兄。[生涯]〈生い立ち〉道成寺の山門の再建や本堂の修復などを手がけた宮大工・仁兵衛の子孫にあたる。父政助は1850年(嘉永3年)5月27日、紀伊国日高郡藤井村(現和歌山県御坊市藤田町)で源兵衛の長男として生まれ、19歳の時に明治維新を経験して「狭いふるさとを出て、広い世界で活躍したい」と、和歌山市の倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入った。
その後日本郵船に入社、勤勉実直な人だった。清彦が生まれた時は単身赴任で宮城県石巻支店に勤務しており、その後四日市に移った。「文芸倶楽部」に狂歌を投書して入選するなど文芸趣味の持ち主でもあった。横浜市立太田尋常小学校に入学後、二人の兄が東京の大学に通うために、数か月で東京に転居し、新宿の津久戸尋常小学校に転校。「少年世界」に「二つの種子」と題する作文を投書し、「少年傑作集」(1908年)に掲載された。1909年に父が定年退職して一緒に住むことになり、芝白金に転居し、白金尋常小学校に転校。
東京府立一中時代の1912年に兄正英が言語学者の大島正健の娘と結婚し、その親戚付き合いで伊藤一隆の子供たちなどとも親しくなった。外交官を目指して一中から一高の仏法科に入学した。寄宿寮に入り、野球や水泳に熱中し、歴史と演劇に関心を持っていて、箭内亙に東洋史の教えを受けた。知遇のあった博文館の竹貫佳水が雑誌「中学世界」の主筆になった縁で、1916年に一高の寮生活をルポルタージュ風にまとめた小説「一高ロマンス」を連載して1917年に出版。また校友会雑誌に小説の習作を発表。父の強い希望で東京帝国大学法学部政治学科に入学。
在学中には東大教授吉野作造が右翼団体浪人会と対決した「浪人会事件」で吉野の応援に駆けつけた。また有島武郎のホイットマンの詩を読む「草の葉会」に出席したり、「中央美術」誌に翻訳を寄稿したりした。本代のかさむのに窮し、兄抱影が編集長となっていた研究社の雑誌「中学生」に、海外の伝奇小説の抄訳や、野球小説の創作を掲載した。仲間と劇団「テアトル・デ・ビジュウ」を結成。畑中蓼坡による民衆座の公演「青い鳥」にも協力・参加し、これに光の精役で出演していた吾妻光(本名・原田酉子)と、1921年2月に学生結婚する。
同年にはロマン・ロラン「先駆者」を翻訳して出版、また菅忠雄らと同人誌「潜在」結成』。大佛次郎は、「宮大工・仁兵衛の子孫にあたる」とあり、宮大工が松の現場工作員であることから松工作員の家系に生まれていると推測します。また、大佛次郎の父・政助は、日本郵船に入社しています。《日本郵船との繋がりが深い静岡・清水を拠点とする創業200年超の名門・鈴与》から日本郵船は、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎がつくった松工作組織の船会社と分かっています。大佛次郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。(つづく)