東京都中野区の成観寺のwikiの「史跡」に記載された「たから第六天(山手通りを挟んだ反対側に所在)」が気になり、追跡しました。たから第六天の情報は《たから第六天(境外堂)》に記載されています。『〈「たから第六天」の由来〉「たから第六天」は、中野開拓者の鈴木九郎が成願寺を建立したとき、土地の恵みと人々の幸福を願って奉安しました。以来600年近く周辺住民の人々に親しまれてきましたが、山手通りの拡幅に伴って位置をずらし、平成8年12月9日、落慶いたしました。「たから第六天」は成願寺の山号「多宝山」にちなんでおります。
〈悪魔の誘惑〉第六天は欲望の世界に生きる魔王です。しかし、大きな力をもつ仏法の守護尊として、人々に信仰されてきました。お釈迦さまがお悟りを開いたとき、その直前に「降魔(悪魔を降伏させる)」とよばれる出来事があっ たと伝えられています。お釈迦さまの6年間の苦行の後でした。断食をはじめ、厳しい苦行で衰えた身体を尼連禅河という川で清め、静かに樹下に坐していたときのことです。
そこへ「マーラ」と呼ばれる悪魔が近づき、お釈迦さまに誘惑を仕掛けました。おいしそうな食べ物をもりだくさんに出現させたり、美しい女性をなまめかしく見せたりして、心を乱そうとしたのです。
金銀や宝石も次々と現わしましたが、効き目はありません。
誘惑が通じないと見た悪魔は、今度は肉食獣や盗賊の群れ、攻めよせる軍勢を出現させて恐怖を与えようとしました。しかし、お釈迦さまがたじろぐことはありません。悪魔はついに降伏し、仏法を守護する神になったということです。この悪魔マーラこそが第六天です』。第六天から第六天神社が浮かびます。第六天神社-wikiによると、第六天神社は、元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものです。個人的には、精霊が闇に変えられると魔の力を有する闇の仕事を成すと見ています。
精霊が多く存在する地下・地底がある場所は、魔界と呼ばれる深い闇の地に変わってしまいます。《山梨 プレアデスを暗示する富士山の地下世界と魔王天神社 ~巡礼の旅(626)~》には、『富士山周辺のスバルの名称はプレアデスを示唆する。富士山には地下に裏インドの闇の世界が存在する。地上が美しく地下が暗黒の表と裏の世界を象徴している。魔王天神社は、鞍馬寺の魔王・サナトクマラを祀る神社であり、光を封じる魔を暗示している』と記されています。安倍晋三元首相の別荘があった山梨県鳴沢村から魔王天神社に繋がり、調査とワークを行いました。
山梨県鳴沢村は、オウム真理教のサティアンがあった場所です。このことから鳴沢村の地は、本来は大きな光の地ですが、精霊が闇に変えられ魔界の闇のエネルギーが供給される闇の地底がある場所と捉えています。たから第六天の所在地(東京都中野区弥生町1丁目4-6)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです。レプやヘビの仏像」と伝えられました。たから第六天のある場所も闇の地下・地底と繋がっていて、レプタリアンやヘビなどの爬虫類型宇宙人が神仏に化けたりして闇の仕事をしていたと感じます。
中野長者の鈴木九郎が建立した正観寺から分離された神社が熊野神社です。現在は、東京都新宿区西新宿にある東京都庁の東側に置かれています。熊野神社の情報はwikiに記されています。『熊野神社は、東京都新宿区西新宿二丁目にある神社。新宿総鎮守。十二社熊野神社、新宿熊野神社とも称される。[由緒]当神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394年-1428年)に創建されたものと伝えられている。鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔。
多摩郡中野郷と神田川を挟んだ豊島郡角筈村一帯の土地を開拓して財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。創建年は一説には1403年(応永10年)とされ、鈴木九郎が熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといわれている。かつて存在した付近の地名「十二社(じゅうにそう)」はこれに因んでいる。この地名は現在でも通り(十二社通り)や温泉(新宿十二社温泉)の名などに見られる。ただし、異説もあり天文・永禄年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという説もある。
かつては神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれていた。明治維新後、櫛御気野大神(くしみけぬのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)を祭神とし、名を「熊野神社」と改めた。西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域を氏子町としており、新宿の総鎮守として人々から信仰を得ている。《「角筈十二社(熊野神社)」
角筈十二社は、現在の西新宿四丁目あたりにあった。
「大滝」と呼ばれた滝や大きな池があり、「名所江戸百景」などにも描かれたほど、江戸時代から遊興地として親しまれていた。明治以降は花柳界でも知られた場所で、池の周りは料亭や茶屋で賑わったが、その池も昭和43年(1968年)に埋め立てられてしまった。「大滝」の絵あり。「角筈十二社は近年夏季に至れば都下の納涼者群集し境内の池畔に数多の拭茶屋あり又崖上より落る殊に涼しく此池東京名物の一に撰みしもひゐき眼にはあらずと云爾」と朱書あり。薄い赤色の紙片には「角筈十二社櫻山際」と記されている。
— 清水晴風著「東京名物百人一首」明治40年8月「角筈十二社(熊野神社)」より抜粋》』。西新宿の熊野神社の境内には、昔は大きな滝と十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があったといいます。やはり、この地は水の場所でした。グーグルマップを見ると、現在の熊野神社は、新宿中央公園の中にあるよう見えます。しかし、現在の新宿中央公園は熊野神社の一角でした。これまでの調査とワークから大規模な公園には地下施設があり、子どもを犠牲にした松取り工作の闇の仕組が構築されていることが分かっています。例えば、昭和記念公園があります。
《トカゲ人間が子供の松取りを行う地下施設のある国営昭和記念公園》にありますが、東京都立川市にある昭和記念公園には、トカゲなどの宇宙人が絡んだ、子どもをターゲットにした松工作の地下施設があることがヒプノセラピーで伝えられました。戦後、支配層の松利権工作の一環として、水のある光の地を中心に全国各地に工作拠点としての公園がつくられてきました。当然、熊野神社が隣接する新宿中央公園にも地下施設が置かれていると見ています。熊野神社の宮司・伊藤綾野、所在地(東京都新宿区西新宿2丁目11-2)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」「いいです」と伝えられました。(つづく)