東京都中野区の調査とワークを行う上で外せないのが「陸軍中野学校」の所在地だったことです。今まで幾度か陸軍中野学校についての調査とワークを行ってきましたが、今回は締めくくりを兼ねて再度、陸軍中野学校を追っていきました。陸軍中野学校の情報はwikiに記されています。『陸軍中野学校 は、大日本帝国陸軍の情報機関の一つで、諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした軍学校である。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。偽装用の通称号は東部第33部隊』。
過去に《北朝鮮 利益を得る工作としての朝鮮半島の分断と悪役国家の北朝鮮の成立 ~巡礼の旅(646)~》や《東京 真実を隠蔽する日本の暗闇に絡む陸軍中野学校と黒龍会 ~巡礼の旅(647)~》の記事で陸軍中野学校の真相について追及してきました。陸軍中野学校についてネットで調べていくと《陸軍中野学校終焉之地 群馬県立富岡高等学校・富岡市立社会教育館(2020年5月16日土曜日)》に行き着きました。『現在の群馬県立富岡高等学校が富岡中学校といわれていた戦時中、それも日本が戦争に敗ける前の数か月間、富岡中学校に陸軍中野学校が移転(疎開)してきました。
終焉之地の石碑は、群馬県立富岡高等学校の敷地内にあります。※敷地内に入り石碑を見る際は、学校の管理者の許可を得てからにしてください。終焉之地の石碑については、つぎの上毛新聞に移転した経緯が紹介されています。「卒業生思い寄せた碑 諜報員を養成した陸軍中野学校は1945年の春先に富岡市へ移り、4カ月余りの後、終戦とともに八年の歴史に幕を閉じた。「陸軍中野学校終焉の地」と刻んだ日は、現在富岡高の「御殿」近くにあるが、昔は道路を挟んだセミナーハウスの一角にあったという。
教えてくれたのは富岡高で97年から四年間、校長を務めた戸塚正弘さん(79)=高崎市。上毛新聞の連載「陸軍中野学校の記憶」を読み、連絡をくれた。校長在任中、中野学校の卒業生たちは毎年のように富岡高を訪れ、旧交を暖めていた。道路の先に碑があるのは忍びないと伝えられた戸塚さんは同窓会長と話し合い、99年に現在の地へ移したと振り返る。なぜ碑は初めから敷地内になかったのか。「社会情勢が許さなかったのでしょう」と戸塚・・」(2020.4.5上毛新聞)』。陸軍中野学校終焉の地が群馬県富岡市だったというのは、初めて知りました。
何故、終戦間際に、陸軍中野学校が群馬県富岡市に移転したのかが、ポイントです。「何か裏がある」と感じて、ネットで調べるとwikiに情報が記載されていました。『このような教育は1945年3月まで行われたが、同年3月10日の東京大空襲の影響により、中野学校本校は群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)に移設されることとなった。これを境に教育内容も二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更され、本土決戦を想定した遊撃戦の訓練などが行われた』。陸軍中野学校が群馬県富岡市に移転したのは、東京大空襲の影響だとされます。
もっと深い意味があると思い、グーグルマップで「陸軍中野学校終焉の地」を検索すると興味深い目印が入ってきました。「陸軍中野学校終焉地碑」の目印の所在地の住所は「群馬県富岡市七日市」となっていました。また、同じ敷地には、「七日市陣屋」「七日市藩邸跡(七日市陣屋書院)」の目印も置かれていました。「七日市藩(なのかいちはん)」も初めて知る藩の名称でした。七日市藩について調べるとwikiに情報がありました。『七日市藩は、上野国甘楽郡七日市(現在の群馬県富岡市七日市)を居所とした藩。藩庁は七日市陣屋に置かれた。
1616年に前田利家の五男・前田利孝が1万石余で入封し、以来前田家が12代250年あまり続いて廃藩置県を迎えた。加賀藩前田家一族の外様大名ではあるが、徳川秀忠の小姓を務めていた利孝が大坂の陣の武功により新知を受けるという譜代大名的な成り立ちを持つ。江戸時代中期以降は上野国で唯一の外様大名であった。[歴史]七日市藩の初代藩主は、加賀藩祖前田利家の五男の利孝である。利孝は慶長9年(1604年)より江戸で芳春院(前田利家正室・まつ)に養育された。徳川秀忠に小姓として仕え、大坂の陣で利孝は徳川家の旗本として参戦して武功を挙げた。
このことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石余の所領を与えた。これが七日市藩の立藩である。兄たちが立てた富山藩(前田利次)や大聖寺藩(前田利治)とは異なり、加賀藩前田家からの分知ではなく幕府からの新知である。小藩であったため、また天保の大飢饉などの天災も相次いだため、本家である加賀藩の財政的援助を受けてようやく存続するというような状況であった。歴代藩主の多くは駿府城・大坂城の守備役を務めている。第11代藩主・利豁の代である天保13年(1842年)、藩校・成器館が創設された。
しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世は多難を極めた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与し、会津藩の討伐に参加した。翌年の版籍奉還で最後の藩主の利昭は知藩事となる。利昭は成器館を文武学校と改称し、さらに軍務局をはじめとする藩政改革を行なった。明治4年(1871年)の廃藩置県で七日市藩は廃藩となる。その後、七日市県を経て、群馬県に編入された』。七日市藩は、前田利家が始祖となる加賀藩主前田家と徳川将軍家が深く絡んだ藩でした。加賀藩は「加賀百万石」と称された財政豊かな藩です。それは裏の大きな松利権を有していたからです。
加賀藩が巨額な財を成していた理由は、《理化学研究所の設立者でアドレナリンを発見した高峰譲吉と加賀の松果体システム》にあります。現代の高級麻薬・アドレノクロムに相当する不老長寿・若返りの丸薬などの松製品を製造販売して裏のビジネスを行っていたからでもあります。江戸時代は、加賀藩を中心に支配層の松システムが構築されてきたのです。七日市藩の初代藩主は、前田利家の五男・前田利孝です。wikiには、「前田利孝が徳川秀忠の小姓(こしょう)を務めていた」とあります。小姓とは、武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う武士の職の一つです。
七日市藩の初代藩主・前田利孝は、実質的に江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠(徳川家康の三男)の子分だったと見ています。徳川秀忠は、大物の父親・徳川家康に隠れて目立たない存在ですが、支配層の松利権に関して重要な闇の役割を担っていました。《大奥のハニートラップ部門を任されていた江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠》にあるように、大奥をつくって女性を美人局(つつもたせ)や胎児・幼児の松関連の仕事をしていたのです。これが、同じ群馬県富岡市にある世界遺産となっている富岡製糸場の女工を犠牲にした松工作の闇にも繋がっていると感じます。(つづく)