兵庫県知事に再選した斎藤元彦の母方の祖父・大澤伸剛は、北朝鮮出身の在日朝鮮人であり、日本ケミカルシューズ工業組合の理事長でした。それ故に、兵庫県知事の斎藤元彦は、朝鮮学校への補助金を継続していました。2023/8/1の産経新聞の記事《朝鮮学校への補助金継続 全国最大規模の兵庫県 斎藤知事「子供に罪はない」》に詳細が記載されています。『兵庫県の斎藤元彦知事は1日で就任から2年となるのに合わせ、産経新聞などのインタビューに応じ、全国で最大規模となっている朝鮮学校への県の補助金について、今後も支出を続ける意向を明らかにした。
北朝鮮による日本人拉致問題が未解決のまま、朝鮮学校の教育内容や運営実態を踏まえて支出を見直す自治体が広がる中、斎藤氏は「子供に罪はない」として、井戸敏三前知事時代からの支出方針を引き続き踏襲する考えを示した。朝鮮学校を巡っては、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)による「不当な支配」の疑いが指摘され、国の高校授業料無償化(就学支援金)の対象外となっている。自治体からの補助金については東京都や大阪府などが支出を停止しているが、令和3年度は全国11道府県が支出し、11道府県の総額は7275万円。
うち兵庫県は全国最多の4740万円、全体の65.2%に上った。斎藤氏が知事就任後初めて県予算を編成した4年度は約3600万円を支出。今年度の当初予算にも盛り込まれており、具体的な額は今後決まるという。斎藤氏はインタビューで「拉致問題やミサイルの問題は極めて遺憾な事案」と断った上で、「子供の教育は分けて考えるべきだ」と強調。毎年度、学校への現地調査などで運営実態をチェックしているとし、「適切に運営されているかを確認しながら、引き続き適正に予算措置をしていくスタンスだ」と述べた。
また2年間の県政運営を振り返り、大型のハコモノ投資など支出の見直しを進め、行財政改革で一定の成果を上げていると説明。今後は若者世代への支援に力を入れる考えを示した』。兵庫県は、支配層・八咫烏の重要拠点の1つであり、八咫烏の実働部隊である陸軍中野学校が実質的に建国した北朝鮮と表裏で繋がっていることが想像に難くありません。その1つの現れとしての、朝鮮学校への財政支出です。日本ケミカルシューズ工業組合の理事長を務めた在日朝鮮人の祖父を持つ斎藤元彦にとって北朝鮮は重要な国家なのです。
《北朝鮮の万景峰号と拉致問題の源流となる八咫烏の工作組織・統一教会の闇で覆われた新潟の地》などの記事から北朝鮮と統一教会は一心同体であると捉えています。1950年の朝鮮戦争によって朝鮮半島は南北朝鮮(現・北朝鮮と韓国)に分離されました。2つの国家に分離して敵対させることで様々な工作を成すことが出来ます。支配層・八咫烏は、北朝鮮を悪役レスラーにし仕立てた政治的軍事的なプロレスを興行して日本を深い暗闇にしてきました。プロレスですから裏で手を組んでいかさま・八百長の金儲けの工作をしているのです。
松・薬・人身売買の裏の金儲けから国家予算(税金)・経済活動・スポーツ・ギャンブルなどの表の金まで支配層に流れる仕組みを構築してきたのです。こうした南北朝鮮の工作に深く絡んできたのが統一教会なのです。こうしたことから、北朝鮮と繋がっていることは統一教会と繋がっていることになります。斎藤元彦に背後には統一教会が存在しているのです。大澤伸剛の経歴はwikiに記されています。『大澤伸剛(1925年-2018年)は、兵庫県神戸市垂水区出身の実業家。旧日本海軍の士官。勲五等瑞宝章受章者。株式会社オオサワ元代表取締役。
日本ケミカルシューズ工業組合元理事長。外孫は第53代兵庫県知事の斎藤元彦。[経歴]1940年(昭和15年)大阪市立都島工業学校電気科を卒業。1947年(昭和22年)大澤ゴム工業所を創立。塩化ビニールを素材とする商材の製造販売を開始。作業工程の機械化にも努め、地元鉄工所と連携しコンベヤー方式を確立。多くの企業がこの方式を採用し、生産能力の向上に大きく寄与した。1954年(昭和29年)同社の貿易部門として源弘貿易(のちの大澤産業)を設立。神戸でいち早く、ゴムや合成皮革、麻布などを使ったケミカルシューズの生産に乗り出した。
1956年(昭和31年)西日本貿易振興協議会主催の第5回西日本輸出雑貨振興会において知事賞を受ける。1958年(昭和33年)4月国際見本市に業界代表として出席、感謝状を受ける。同年7月源弘貿易を大澤産業と改称。1959年(昭和34年)4月黒い羽根運動に協賛。炭鉱離職者の増加が社会問題になっていた1960年(昭和35年)ごろ、九州の職業安定所を通じて、中学生を含む61人を採用した。身体障害者や母子家庭の子どもたちを積極的に採用して技術を継承し、人材育成にも力を注いだ。その後、第2回ケミカルシューズコンテストにおいて表彰を受け企業合理化により知事から産業功労賞を受ける。
同年7月大澤ゴム工業所を株式に改組。1960年(昭和35年)8月全国履物組合東京コンテストにおいてグッドデザイン賞を受ける。神戸市立蓮池小学校PTA役員も兼任。1971年(昭和46年)日本ケミカルシューズ工業組合理事長に就任。長田区にあるケミカルシューズ産業会館建設(1973年(昭和48年)2月完成)に力を注ぐ。そのほか業界の機械化、合理化も推し進め、混乱のドルショック、オイルショックの局面をしのいだ。2002年(平成14年)、ポートアイランド第2期の緑地にゴルフ練習場を建設。練習場の隣に公園も整備した。2018年(平成30年)9月18日、老衰のため神戸市須磨区の自宅で死去。
[エピソード]かつて日本ケミカルシューズ工業組合副理事長を務めた在日朝鮮人の韓皙曦(ハン・ソッキ、日本名:西原基一郎)著「人生は七転八起:私の在日七〇年」(岩波書店、1997年)によれば、大澤の政治力と実行力は傑出していた。(ニクソン・ショックやオイルショックなど)危機対応の支援に政治家を引き込んで国、県、市に強力に働きかけたという。また大澤はケミカルシューズ産業会館を建設し、借入金や経費は、神戸市商工課の出張所などのテナント数軒の家賃と数十台の駐車場料でまかなえるようにし、組合の域をつくったという。尚、韓は大澤の性格を以下のように評価している。
「大澤ビルのテナント出入口には稲荷大明神の社殿があり、朝夕の拍手を欠かさない、自宅には神殿、庭には神祠があるという信心家であった。毎日曜午前中もただ一人出社して、新聞や雑誌から重要記事を切り抜いて収集し、研究を怠らなかった。— 韓皙曦、「人生は七転八起:私の在日七〇年」p195より引用」』。ケミカルシューズの生産の中心地は神戸市長田区です。wikiによると、神戸市長田区の3番町から6番町(番町地区)一帯は東洋一のスラム街であり、被差別部落でもあったといいます。《人民新聞》によると、『長田区はケミカルシューズの生産が盛んだ。被差別部落に住む人々の雇用の受け皿になっていた』とあります。
また、wikiに『(大澤伸剛は)1960年(昭和35年)ごろ、九州の職業安定所を通じて、中学生を含む61人を採用した。身体障害者や母子家庭の子どもたちを積極的に採用して技術を継承し、人材育成にも力を注いだ』と記されています。弱者を隠れ蓑にした裏の仕事を担っていたことが浮かびます。神戸市長田区には、松取りの現場工作を担うサンカ・同和・反社の闇に覆われていたと見ています。大澤伸剛は、表のケミカルシューズ製造だけではなく、裏の松利権に深く絡んでいたと推察します。ヒプノセラピーの中で、埼玉県の被差別部落の出身だったクライアントの方の祖父がスリッパ製造の裏で松取りをしていたことが伝えられています。
被差別部落の人たちは、古くから生活資金を得るために松取り関連の汚い仕事を強いられてきました。《スリッパ製造の裏で松取りの仕事をしていた祖父の魂が光に還る》に詳細があります。大澤伸剛が稲荷神社にお参りすることを欠かさなかったのは、サンカとして金の亡者になっていたからだと捉えています。大澤伸剛の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「レプ」と伝えられました。「レプ」とは「レプタリアン」のことで、トカゲ・レプタリアンという爬虫類型宇宙人です。大澤伸剛は、元海軍軍人であり、トカゲが絡む八咫烏工作員の役割を担っていたと感じます。(つづく)