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斎藤元彦の母方の祖父・大澤伸剛は、日本ケミカルシューズ工業組合の理事長に就任し、神戸市長田区を主とするケミカルシューズの生産に深く関わっていました。ケミカルシューズ製造は、祖父だけではなく実父も関係しています。斎藤元彦-wikiには『兵庫県神戸市須磨区に生まれる。実家はケミカルシューズの製造会社を経営しており、長田区と須磨区において事業を行っていた』と記されています。斎藤元彦の実父についてネットで調べましたが、不思議なことに、殆ど情報が出ていませんでした。

 

唯一見つけた情報が《斎藤元彦の実家はどこ?父親は祖父の会社の監査役で現在はゴルフ場経営?》にありました。『斎藤元彦さんの実家は、週刊誌の情報によると、斎藤元彦さんの実家は新興住宅地に建つ約120坪の豪邸といわれています。斎藤元彦さんの父親について調べましたが、名前や顔画像などは公表されていないようです。しかし、父親は祖父の会社の監査役を務めていたという情報があります』と記されています。やはり、斎藤元彦と実父や実家は母方の祖父の大物の大澤伸剛の影響を強く受けていたようです。

 

しかし、9/25のデイリー新潮の記事《「祖父の邸宅を勝手に売り払い選挙資金に」 斎藤知事が起こした相続トラブルを親族が激白》には、母方の実家とは4年前に絶縁していたことが書かれています。『すでに政治家として詰んでいるのに、この期に及んでまだ己を正当化する主張ばかりしている、兵庫県の斎藤元彦知事(46)。以前コメントをご紹介した、4年前に絶縁したという親族もあきれ果てているようで……』。また、2024.08.28NEWSポストセブンの記事によると、斎藤元彦の母方の祖父・大澤伸剛が支援していた政治家に石井一がいるといいます。

 

『斎藤氏の祖父は、長田区と須磨区で事業を行なう製造会社の社長だった。地元の政治関係者の話。「元彦くんのおじいさんは、ケミカルシューズの工業組合の理事長も務めていて、地域では相当の有名人でした。政党は自民党で、須磨区出身の石井一さん(享年87)の有力な支持者だったんです。おじいさんはゴルフ場も経営して、それも大当たりした」約120坪の豪邸を地元に構え一族の中心だった祖父は、多くの孫のうち斎藤氏に最も期待を寄せていたという』。松利権の裏金が絡んでいたと感じます。自民党の石井一は、小沢一郎の側近だったと記憶しています。

 

石井一の経歴はwikiに記されています。『石井一(1934-2022)は、兵庫県神戸市須磨区出身の政治家。衆議院議員(11)、参議院議員(1)、国土庁長官、自治大臣、国家公安委員会委員長、衆議院内閣委員長・公職選挙法改正に関する調査特別委員会委員長・政治改革特別委員長・決算委員長・決算行政監視委員長、参議院予算委員長、民主党国会対策委員長、同選挙対策委員長などを歴任。元参議院議員・日本国特命大使の石井一二は弟。甥に兵庫県議会議員の石井健一郎、西宮市長の石井登志郎がいる。

 

2人とも石井一の元政策秘書であり、登志郎とは養子縁組をした。兵庫県議会議員の石井秀武は親類にあたる。危機管理都市推進議員連盟会長。日本音楽家協会会長。日本ジャズ音楽協会会長。上海大学顧問教授。イオンド大学(非認定大学)名誉教授。[来歴]タイヘイレコード社長で、後に自由民主党兵庫県議会議員を3期務めた石井廣治の長男として、兵庫県神戸市須磨区に出生。小学校5年生で、太平洋戦争敗戦と同時に政治家を志す。神戸市立西須磨小学校、甲南中学校を経て、甲南高等学校に入学し、弁論部に所属した。

 

1957年に甲南大学経済学部を卒業した後アメリカに留学。1960年、スタンフォード大学大学院政治学研究科を修了し、修士号を取得。同校の助手となる。帰国後、郷司浩平の伝手で、郷司が専務理事を務めていた「日本生産性本部」の職員となる。1967年、32歳の時に第31回衆議院議員総選挙に旧兵庫1区から立候補するも、落選した。浪人期間中は田中角栄の私設秘書を務めた。続く1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(当選同期に小沢一郎、羽田孜、梶山静六、奥田敬和、渡部恒三、綿貫民輔、塩崎潤、森喜朗、村田敬次郎、松永光、江藤隆美、浜田幸一など)

 

197512月の三木改造内閣で労働政務次官、1976年の福田赳夫内閣で運輸政務次官に就任』。石井一は元首相・田中角栄の秘書をしていたことがあり、小沢一郎とは同期でした。それ故に、小沢一郎の側近となったのだと感じます。石井一の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「統一」と伝えられました。田中角栄の秘書、小沢一郎の側近という状況から八咫烏鶴派の工作員のように見えますが、実態はもっと重くて汚い、鶴派と亀派を戦わせて利益を得る同和派の立ち位置だったようです。

 

石井一は、非常に闇が深い神戸市須磨区に生まれたことからも、北朝鮮が深く絡んだ統一教会の工作員の役割だったと捉えています。斎藤元彦-wikiには、『元彦という名前は、元兵庫県知事で斎藤の親族の仲人を務めたこともある金井元彦にあやかり、祖父が命名した』とあります。斎藤元彦の名前も祖父がつけたといいます。その名前の由来が、元兵庫県知事の金井元彦です。金井元彦の経歴はwikiに記載されています。『金井元彦(1903-1991)は、兵庫県神戸市出身の内務官僚、政治家。

 

行政管理庁長官、参議院地方行政委員長、同沖縄及び北方問題に関する特別委員長、参議院議員(2)、兵庫県知事(2)、兵庫県立近代美術館長、兵庫県副知事、青森県知事などを歴任。[経歴]旧制第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法科を卒業した。1927(昭和2)に内務省へ入省し、警保局検閲課長を経て1945(昭和20)1月に官選第45代青森県知事となる。[青森県知事時代]太平洋戦争の戦局悪化に伴いアメリカ軍の本土空襲が日を追って激しくなる中、金井は718日に新聞を通じて声明を公表した。

 

「家をからっぽにして逃げたり、山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが防空法によって処罰出来るのであるから断乎たる処置をとる」と公表する。この声明を受けて青森市では郊外へ避難している市民に対して「728日までに帰宅しなければ人名台帳から氏名を抹消し、食糧や物資の配給を差し止める」と警告し、多くの市民が強制的に避難先から帰宅させられたが、青森市街は28日から29日にかけての青森大空襲により市街地の81%を焼失する壊滅的な被害を受け、1018名の犠牲者を出した。

 

このため、結果的に金井の声明が空襲による犠牲者を増大させたとの批判がある。[兵庫県知事時代]1969(昭和44)に滋賀県の障害児入所施設・びわこ学園を視察した際の体験を基に提唱した。ダウン症候群などの染色体異常を早期に発見することを目的として出生前診断を奨励した「不幸な子どもの生まれない運動」は優生思想に基づく人権侵害施策として青い芝の会などから強い非難を浴びた。元明石市長泉房穂は、金井は、優生保護法の推進第一人者で、兵庫県庁にその部署まで作った。

 

「障害のあるものはこの世から抹殺する」ということを方針に掲げて「障害を持ち生まれそうだったら、殺してしまえ」という運動を全国の先頭を切って行った知事であった。このため、障害者であった私の弟も危うく殺されそうになったと証言している』。元兵庫県知事の金井元彦は、支配層の松利権という人命を犠牲にした金儲けのために相当残忍なことをしていたと感じます。元兵庫県知事の金井元彦の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。暗闇にする八咫烏工作員の役割だったようです。(つづく)