札幌円山の麓を流れ、札幌市の市道である環状通で暗渠化された界川(さかいがわ)の源流(水源)をネットで調べましたが、有用情報は殆どありませんでした。しかたなく、河川地図の《界川 北海道 新川水系 - 川の名前を調べる地図》から界川の始点を調べると、やはり藻岩山の中腹にあり、札幌市中央区界川の東側を北に流れていました。界川が封印されていることは、水のエネルギーである光の精霊が闇に変えられていることを意味します。人命を犠牲にした松取りによって、光の精霊が闇に変えられます。
表が白色で裏が黒色のオセロの石に例えると、分かりやすいです。白だった石が松取りによって黒の石に反転するのです。純粋の祈りによって、黒になった闇の精霊をもう一度白に戻すことが出来ます。界川を闇から光に変える必要がありました。それは、界川を本来の姿に戻すことでもあります。そうなると、界川の精霊を闇に変えた松取りの闇が置かれた場所を探す必要がありました。界川の精霊を闇に変えた松取りの場所としては、「札幌焼(さっぽろやき)」が関係していると感じました。
「札幌焼」の情報はwikiに記載されています。『札幌焼は、かつて札幌市で生産されていた陶器。[概要]札幌で陶器を焼こうとする動きは明治の末ごろからあり、1899年(明治32年)には蝦夷陶器合資会社が設立し、1903年(明治36年)には北海道耐火煉瓦合名会社が本店を置いている。大正時代に入ると、1914年(大正3年)に札幌陶器製造株式会社が設立したが、翌1915年(大正4年)に中井賢治郎によって買収され、中井陶器工場となった。当時、狸小路には南部忠平の父・源蔵が当主を務める三国屋南部源蔵商店があった。
中井はその支配人の地位にあった。中井が源蔵の後ろ盾を得て陶器工場を始めたのは、酒類を扱う三国屋にとっての必需品である徳利、甕、茶器などを生産するためだった。こうして始まった札幌焼の歴史は、長くは続かなかった。大正の末ごろ、1923年(大正12年)に三国屋が倒産すると、後ろ盾を失った中井陶器工場は1924年に家族出資による「中井合名会社」に改組し存続を図るも1925年(大正14年)10月に操業を停止した。[廃絶後]中井陶器工場の閉鎖から40年以上が経過するうちに札幌焼の存在は忘れられていった。
しかし、旭山記念公園の道路や駐車場を造成中に煉瓦製の登り窯が発掘され、再び陽の目を見ることとなった。焼窯跡はさっぽろ・ふるさと文化百選のNo.048として選定されている。戦後は中井陶器工場の中心的陶工だった涌井広三の甥である涌井辰雄が道立工業試験場で陶器の研究を行い、定年退職後の1977年には「北辰窯」を開設し工業試験場での北海道の地場産陶器の研究資料も活かし札幌焼を復活。1982年の涌井辰雄の死後には親交のあった阿妻一直が札幌焼を受け継ぎ、「札幌焼盤渓窯」として作品制作を行っている。
引き継ぎについては涌井辰夫と関係のあった陶芸家・山岡三秋に弟子入りした阿妻一直が涌井辰夫の死後に妻の涌井武子に相談に訪れた。阿妻が後世に札幌の焼物として札幌焼を受け継ぎ後世に伝えて欲しいと託される経緯となっている』。札幌焼の関係者として「南部源蔵」と「中井賢治郎」をピックアップしました。《札幌ぶら歩き探訪》によると南部源蔵の経歴は、『平岸天満宮は、明治36(1903)年に創建されました。この神社を建てたのは、札幌の豪商・南部源蔵という人物です。
彼は「三国屋」という屋号で、酒や醤油・味噌、缶詰などの製造・卸売を手がけており、最盛期には小樽や旭川などに10店舗以上の支店を構えるなど、札幌でも有数の商人でした』とあります。南部源蔵は、「南部」の姓であり、ルーツは南部藩士だと推察します。《八咫烏は暗闇に生きて暗闇で活躍できる》などの記事から南部藩(盛岡藩)の藩士は、八咫烏鶴派の工作員の役割を担っていたと見ています。八咫烏工作員は、天皇をトップとする支配層の裏の金儲けである松利権網の維持拡大を目的にした仕事をしてきました。
松取りの現場仕事は、精霊の光を闇に変えて暗闇にする役割を意味します。南部源蔵が営んできた三国屋が扱う酒や醤油・味噌、缶詰には松の闇が絡んでいると感じます。中井賢次郎は、酒類・食料品雑貨商の三国屋支配人であり、界川に中井陶器工場を構え札幌焼を生産した人物です。札幌の豪商で三国屋の創業者・南部源蔵と横浜焼の生産者・中井賢次郎の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「サンカ」「サンカ」と伝えられました。いずれも八咫烏の現場工作員のサンカの役割だったと感じます。
旭山記念公園の道路や駐車場を造成中に発掘された、煉瓦製の登り窯の場所をグーグルマップで探すと《札幌焼窯跡》を見つけました。《札幌焼窯跡碑》には、札幌焼窯跡にある案内板の内容が記載されています。『大正3年10月、札幌郡藻岩村大字円山村に札幌陶器製造(株)が設立されたが、翌年になって解散しました。これを中井賢次郎(三国屋支配人)が引継ぎ、中井陶器工場として新発足しましたが、大正14年10月収支償わず閉鎖されました。この間、生産された製品を札幌焼といいます。札幌焼は、円山付近の粘土、豊富な沢水と林内のマキ材料に依存して起業されました。
窯は登り窯で三基ほどあり、大きい窯は、焼成室(間)が六つほどありました。札幌焼は実用品で、かめ、はち、すりばち、花びん、茶わん、とっくり、きゅうす、湯たんぽ、沈子(網用)などが知られています』。実は、この札幌焼窯跡は半年前位に気づいていました。旭山記念公園に足を運んで光を降ろす予定にしていた場所でした。札幌焼窯跡所在地(北海道札幌市中央区界川4丁目1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「亡くなった人たちが沢山いる」と伴侶が伝えてきました。やはり松取りが行われた場所でした。再度、御魂が上がるよう光の柱を降ろすと「いいです」と伝えられました。
界川の光の精霊を封じていた松取りの闇が解除されたので、界川が本来の姿になるよう意図して光を降ろすと「龍ちゃんが眠っている」と伴侶が伝えてきました。やはり界川の龍が封じられていたようです。再度、界川の龍が目覚めて解放されるよう意図して光を降ろすと「緑色の龍が出てきた」と伝えられました。龍は自然の光である精霊の一種であり、精霊のリーダーでもあります。土地を開いて本来の姿にするためには、封印された龍や精霊を蘇らせることが重要です。札幌の地が開かれて本来の光の姿になることを願っています。(おわり)