昨年12月にセッションを受講したクライアントの方の出身地が、「富山県下新川郡入善町(にゅうぜんまち)」という初めて聞く場所でした。入善町の地図を調べてみると、北アルプス立山連峰から富山湾に流れ着く黒部川の河口にある地でした。入善町は、多くの湧水の地があり、大事な光の場所だと感じました。これまでの調査とワークから大事な光の場所は、生贄や松取りによって深い闇の地に変えられてきたことが分かっています。地上や地底の自然の水、岩、木などに宿る目に見えない精霊という光の粒子が闇の精霊に変えられてきたからです。
例えるのならば、オセロの石が白だったものが黒に反転して深い闇になっている状態です。深い闇の地に変えられた場所には、支配層の配下で松取りの現場工作員の仕事を担うサンカの人々が多く存在します。松取りの裏の仕事は、大金が得られるので、金に目が眩んだ人たちがこぞって松工作員の仕事をするのです。《隠された加賀の松果体システムが表に出て最後になる》にありますが、富山県は、江戸時代に「加賀百万石」と称された加賀藩主前田家が支配していた領地です。江戸時代の加賀藩は、松システムの中核を担っていました。
松利権という松取りによる裏金が豊富である故に、百万石という豊かな財力を有していたのです。また、「富山は石川の奴隷のような立場だ」とも話も聞いたことがあります。百万石の加賀藩の中心は、前田家の居城のあった金沢城で、今の石川県金沢市です。富山よりも石川の方が上位の立場にあったのは明らかです。富山の地は、「越中富山の薬売り」と言われるように、置き薬(配置薬)のメッカでした。私も小学生の頃に伊豆の実家に富山から薬売りが定期的に訪れていたことを覚えています。《加賀藩の松利権を象徴する胎盤の漢方薬・混元丹》には、松利権が絡む混元丹に言及しています。
『加賀藩では胎盤を用いた漢方薬である混元丹を製造販売していた。越中富山の薬売りの呼び名から、富山は薬都でもあり、加賀藩は松と薬の利権を有していた。それ故、加賀百万石と呼ばれる豊かな財政基盤だった。飛び地の領地だった今津町は、琵琶湖の竹生島の港があり、竹生島で松果体収穫を行っていたと推察できる』とあります。石川県金沢に暮らす加賀藩主の前田家の支配下で、富山の人たちは現場工作員として使役されていた構図が浮かびます。現実的に富山の人たちは、北方領土に松工作員として移住させられた歴史があります。
《富山県黒部市から歯舞群島への移住が暗示する表の昆布と裏の松》にありますが、女子プロテニスの大坂なおみ選手の先祖を追っていくと、北方領土の歯舞群島の島の勇留島だと分かりました。《国後島中心に50箇所の缶詰工場が存在した北方領土》から北方領土には、カニ缶などの海産物の缶詰の裏で、松の缶詰を製造していた工場が50箇所ほど存在していたと見ています。支配層・八咫烏の配下で富山の人たちやウクライナ人たちが工作員として動員されていたのです。ヒプノセラピーでも富山出身の先祖が松工作員の元締めをしていたことが伝えられています。
《松取りの元締めの裏の仕事をしていた富山出身の祖父》には、『喉の不調の原因は、他界した父方の祖父。真実を知って欲しい。気づいて欲しい。祖父は人に言えないことをしていた。松取りの元締め。祖父は富山から東京に移住した。富山県の親戚から大金を貰って東京で銭湯の仕事をやってくれと言われた。祖父は、松システムの中心の富山の拠点を東京につくるためだった』とあります。戦後、富山出身の人たちが支配層の配下で松工作員の役割を担っていたことが窺えます。富山の地は、深い闇に変えられた場所であり、本来の光の地に戻す必要があります。
これは、人も同じで、深い闇を経験した魂を持つ人ほど、大きな光に成る可能性を秘めています。今回、クライアントの方から繋がった重要な光の場所である富山県入善町の調査とワークを行っていくことにしました。入善町の情報はwikiに記載されています。『入善町は、富山県下新川郡に属する町。黒部川が形成した黒部川扇状地の中央に位置し、北は日本海に面している。地下水が湧出する海岸に近い平地にわずかに残る「杉沢の沢スギ」は全国的にも珍しく、国の天然記念物に指定され、全国名水百選にも認定されている。[地理]北側は日本海に面しており、海岸線は11.5 km、それを底辺とし南に尖った三角形をしている。
舟見地区では旧扇状地の隆起段丘が見られる。河川:黒部川、小川、舟川、入川
、平曾川 海:日本海 山:負釣山、舟見山、園家山 隣接している自治体:黒部市、朝日町[歴史]・1889年(明治22年)4月1日-町村制の施行により、下新川郡入膳村、入膳新村、元青島村、君島村及び神林新村の区域をもって、下新川郡入善町が発足する。当時の村の面積は6.14m2。・1953年(昭和28年)10月1日-下新川郡入善町、上原村、青木村、飯野村、小摺戸村、新屋村、椚山村及び横山村が合併して、下新川郡入善町が発足する。当時は県内最大規模の町であった。・1956年(昭和31年)5月10日-財政再建団体となる。
・1959年(昭和34年)1月1日-下新川郡舟見町を編入する。この時点での人口は36,472人で、黒部市の市制施行時の32,329人を上回っていた。しかし1958年8月以降の市制施行の要件が人口3万人から5万人に変更されていたため、市制施行には至らなかった。・1971年(昭和46年)4月27日-入膳3255番地に町役場が完成し、同年5月8日に竣工式(鉄筋コンクリート造4階建て、延床面積4,125㎡)。・2024年(令和6年)5月26日-入善町中央公園北側に新庁舎が完成し竣工式が行われる。また、同年5月27日より業務が開始される』。まず、入善町の支配層として町長・町議会議長・観光物産協会会長・商工会会長をワーク対象に選びました。
入善町の町長は、笹島春人(ささじまはるひと・3期目)です。経歴は《拓殖大学学友会》によると、『昭和23年12月16日生まれ(65歳)。昭和42年 3月 富山県立入善高等学校卒業。昭和46年 3月 拓殖大学卒業。昭和46年 4月 入善町役場入庁。平成21年 3月 定年退職。平成21年10月 入善町議会議員(1期目)。平成25年10月 入善町議会議員(2期目)。平成26年 6月町長選挙出馬のため町議会議員辞職。平成26年9月入善町長』と記されています。入善町の町長・笹島春人に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「アーク」と伝えらえました。入善町長は、松利権網を構築したアークの役割のようです。(つづく)